医学界新聞

 

教養としての
Arztliche Umgangssprache als die Allgemeinbildung
医  者  

ディレッタント・ゲンゴスキー

〔 最終回 〕 拾遺,あるいはとりとめのない幕切れ


前回よりつづく

 いつの間にか最終回になってしまった。残された紙面でこれまでに書き漏らしたが挙げておきたいドイツ語系単語,英略語の安易な続け読みへの再度の警告,ローマ字を使った当て字などにつき語ってみたい。


【例文】

(1)ザーのノートオペラチオンだ。ティシュトートだけは避けたい。
(2)細胞診ではパックらしいということだったが,パーマネントではxxxxという結果だった。
(3)本が読みにくいのはブリレが合っていないのではなく,ドッペルゼーエンのせいだった。
(4)K察からの要請で,QQ搬送されたホームレスにOQ処置をした。

標準的な日本語に訳すと
(1)クモ膜下出血の緊急手術だ。術中死だけは避けたい。
(2)細胞診では(甲状腺)乳頭癌らしいということだったが,(切除組織の)永久標本では濾胞癌という結果だった。
(3)本が読みにくいのは眼鏡が合っていないのではなく,複視のせいだった。
(4)警察からの要請で,救急搬送された路上生活者に応急処置をした。

ザプ?

 ドイツ語では直後に母音を従える“s”の字は[z]と発音されるのが通則だ。医学用語で例を探すとSalbe(ザルベ:軟膏),Sektion(ゼクツィオーン:解剖),Sonde(ゾンデ:探触子)などが浮かぶ。以前に医者語談義をしていた時,誰かが「SAHは英語subarachnoid hemorrhageの略なのだから,ザーと濁って読むのは間違いで,サーのはず」と言い出した。確かに出血の意味でよく使われるドイツ語はBlutung(ブルートゥンク)だが,独和辞典にHämorrhagie(ヘモラギー)というギリシャ語系の語彙も載っている。だから理論的にはsubarachnoidale Hamorrhagieというドイツ語の言い回しがあってもよいはずだが,インターネットで検索してもそのような用例は一つも釣れず,かえってsubarachnoidale BlutungをSABと略す文献が複数見つかってしまった。どうやらドイツ語でクモ膜下出血をSAHと略すことはありそうもなく,その友人の言うとおり「ザー」は英略語を擬似ゲルマン訛りした和製俗語らしい。

 続く複合語Notoperation(ノートオペラツィオーン)の後ろ側の部分は説明不要だろう。頭に付いているNotは困窮,苦難などの語義もあるが,ここでは危機,緊急事態,非常事態すなわち,英語emergencyに当たる感じだ。ちなみに非常口をドイツ語でNotausgang(ノートアウスガンク)と言う(Ausgangは「出口」)。さて,ドイツ語でTisch(ティッシュ)とは,鼻や口を拭いたりする紙のことではさらさらなく,英語のtableに相当する名詞。ここではOperationstisch(英operation table)すなわち手術台のこと。その上でTod(トート:死ぬこと)に至ればすなわち「術中死」だから,これをぜひとも回避したいと思うのは当然だ。ただしTischtodという綴りでは独和辞典に載っておらず,ネットで検索してもドイツ語文献は何もヒットしないので,和製独語あるいは古語かもしれない。なお,クモ膜に包まれた臓器(脳)を意味するドイツ語はHirn(ヒルン)ないしGehirn(ゲヒルン)。

麺類の通ですか

 甲状腺の乳頭腺癌papillary adenocarcinomaの略語であるPACをパックと発音する人たちがいる。この流儀だと濾胞腺癌follicular adenocarcinomaの略語FACのカナ表記はファックとなり,英語圏のまともなメディアでは放送禁止・印刷禁止となる4文字コトバを想起してしまう(もちろん綴りは違うのだが)。例文の該当語を伏せ字にしたのもそのことを茶化したつもり。ピーエイシー,エフェイシーと一字ずつ読んでも発音にかかる時間差はほんのわずかなのだから,ややこしい連想を誘う言い方は避ければよいのに。さらに言えば,最近甲状腺分化癌の呼称に関しては“-adeno-”「腺」を取る言い方が主流となっており,「乳頭癌」,「濾胞癌」ならば日本語で発音しても3音節だから所要時間は長くない。甲状腺髄様癌を部分徴候とする多発性内分泌腫瘍2型をメンツーと呼ぶのも好きになれない。エミーエヌタイプツーないしエミーエヌニガタという音の塊で耳に入ってくれば,学生の時に講義で習って以来忘れかけていた人でも“multiple endocrine neoplasia type 2”という正解を思い出せるかもしれない。それを「ユネスコ読み」されてしまうと,内分泌腫瘍を専門にしていないお医者さんたちはとっさに理解できないまま話についてこられなくなるおそれがある。症例検討会などで最初に断らずにメンワン,メンツーを連発するのは,本人は意識しないうちに「わかる人だけわかってもらえたらよい」という文脈外メッセージとして発しているのと同じだと思う。

めがね

 眼科用語をまとめて特集する機会がなかったので,例文に挙げたふたつだけでも紹介しておこう。Brille(ブリレ)は一般にも使われるドイツ語。読書用の,と用途を付け加えたていねいなLesebrille(レーゼブリレ)という言い方もある(lesenは読むという動詞,語頭を大文字にしたLesenで読書,読むことという名詞になる)。Doppelsehenは「見ること,視力」を表すSehen(ゼーエン;見る,見えるという動詞sehenが名詞化したもの)に接頭辞Doppel-(ドッペル:二重の)がくっついたもの。英語でいうところのdouble visionですな。ちなみにDoppelgänger(ドッペルゲンガー)とは分身ないし代役・替え玉。

QQ外来

 例文4に使われているローマ字の当て字を「医者語」というかどうかは別として,語義解説は要りますまい。決して真似をすすめるわけではないが,音から元の単語が逆算できる限りは一種の「速記」として,一刻を争う救急の現場で書かれたものなら容認できる気がするのでR(あーる)。最近,救急のことをQ2という表記にまで出会ってしまった。伝言ダイヤルの影響か。類縁表現として「療」の字をやまいだれにRと書いたり,「他院で心筋コーソクの疑いと言われた」などと画数の多い漢字語をカタカナ書きする例もある。これも,毎日カルテ診をする身にとっては「シャンポリオン()でも解読に苦労しそうな(?)」悪筆で漢字を書かれるよりははるかにまし,というのが正直な感想だ。

いろいろ

 これまでに血液と尿を意味するBlut(ブルート),Harn(ハルン)をご紹介したが,シーツを汚したりして何かと話題になりやすいものとしてはあとひとつ,Kot(コート:大便)がある。ドイツ語としてはStuhl(シュトゥール:もとは椅子の意味,英語stoolと同様に便の意味が派生した)もあるが日本の医者語としての使用頻度は圧倒的に前者が多い。腸に関連してルフト(Luft:空気,気体)についても触れよう。腹腔,胸腔などに漏れ出た気体(英:free air)の意味で使われることが多い(多かった)が,消化管の造影検査の際には陰性造影剤としての空気を指すこともある。なお,Luftには一般語としては「空,空中」の語義もあり,航空便はLuftpostだし,ドイツ航空の現地語名はご存知の通り,Lufthansaだ。

 さて,例文1に関連して述べた脳以外にこの際ぜひ挙げておきたい臓器名としては,Nebenniere(ネーベンニーレ:副腎)がある。英語(ラテン語由来)のadrenalと同様,腎臓(Niere)のそばに(neben)あるところからの命名だ。あと,脾臓がMilz(ミルツ)。そういえば「ていねいに診るつもりだったのにミルツの触診を忘れてた」,などという駄洒落(おやじギャグ)もあったなあ。

おわりに

 1年間「言語おたく」の駄文におつきあいくださいまして,ありがとうございました。ドイツ語の綴り間違いの指摘を含む貴重なご意見の数々,励ましを込めたお手紙や電子メール,顔見知りの先生方からの「読んでますよ」の一言にも心から感謝いたします。本連載が日頃何気なく使っている業界用語に目を向けるきっかけとなれば望外の喜びです。皆様がそれぞれの職場で正しく美しい医者語を適量使って,ますます活躍されることを願いつつ。

<完>

:Jean-François Champollionは19世紀前半に活躍したフランスのエジプト学者。ナポレオンの遠征に際して得られたロゼッタストーンを研究し,象形文字ヒエログリフ(神聖文字)の解読に成功した。


D・ゲンゴスキー
本名 御前 隆(みさき たかし)。 1979年京都大学医学部卒業。同大学放射線核医学科勤務などを経て現職は天理よろづ相談所病院RIセンター部長。京都大学医学部臨床教授。専門は核医学。以前から言語現象全般に興味を持っていたが,最近は医療業界の社会的方言が特に気になっている。