医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  91回

「Tさんへ 9年目の詫び状」

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2695号よりつづく

 Tさん,あなたが亡くなられてから9年が経ちました。あなたの死を無駄にしてはならないと,この間,私なりに一生懸命頑張ってまいりましたが,残念ながら力及ばず,日本の医療は,ますます悪い方向へと向かおうとしています。あなたの死が無駄になろうとしていることについて,友として,心から詫びなければなりません。

 思えば,中学時代の友人から,同級のあなたが倒れられたと知らせるメールが送られてきたのは,97年8月のことでした。小児科医として勤めておられた大学付属病院で,あなたは,当直明けの朝,当直室で倒れられたのでした。診断はクモ膜下出血,約20日後,あなたは意識が戻らないまま,43年の短い生涯を終えられました。

 海外に住む私にとって,親友の葬儀への出席がかなわなかったことは慚愧に堪えませんでしたが,数年後,同級生から葬儀の模様を聞くことができました。多数参列したあなたの患児の一人が,あなたが死んだという事実が了解できないまま,「T先生,ケロンパの絆創膏をつけたらすぐ元気になるよって,いつも言ってくれましたね。T先生も,これをつけて,早くよくなってください」と,遺影の前にカエルの絵がついた絆創膏を置いて会葬者の涙を誘ったと聞いたときは,私も涙が出て止まりませんでした。中学のときから心優しかったあなたは,患児たちに対しても,とりわけ心優しい医師であったに違いありません。

 驚いたことに,1年半後,あなたの死は,新聞で報じられる「ニュース」となりました。日本では,医師に過労死が認められることは非常に稀であるのに,あなたの死が労災と認定されたと,「ニュース」になったのでした。「倒れる前の最低12日間は休まず働き,この間に2回,当直に就いた。……毎日最低3時間の時間外労働をしていた」と,倒れる直前の数日間,ほとんど眠る時間がないほど働き続けた様子がそのときの記事に紹介されていましたが,日本の勤務医にとってはあまりにおなじみの過重労働の結果,あなたは「非業」の死を遂げたのでした。

 記事の中で,あなたが勤めていた病院の院長が「勤務態勢の見直しを検討しているが,投薬する薬が少なく診療報酬が低い小児科では,医師の人数を簡単に増やせない」と発言,(1)小児科医の過重労働が深刻化している実態と,(2)診療報酬の額・仕組みなど,日本の医療の制度・政策にかかわる構造上の問題が医師の就労環境の改善を阻んでいる事実を,いみじくも指摘したのでした(もっとも,私には,「制度が悪いからどうしようもない。働きすぎの小児科医が死んでも仕方がない」と言っているように聞こえて,腹が立ってなりませんでしたが……)。

 さらに,記事の末尾で,ある医大の教授が,「今回と同じような悲劇が,どこで起きても不思議ではない危機的な状況だ」と,日本の小児医療全体の危機であることを強調したのですが,あなたの死から9年,日本の勤務医の過重労働を巡る状況は,改善されるどころか,産科,麻酔科,内科……と,他科にも拡大するほど悪化したのでした。

 Tさん,過労死の犠牲となられたあなたにとって,なぜ,日本の医師の過重労働の問題が悪化する一方なのか,不思議でならないでしょう。実は,Tさん,あなたの死が労災と認定されたことが「ニュース」となった事実にその答えが隠されているので,ここで少し説明させてください。

 通常,過労死が労災と認定されるためには,月100時間を超える時間外労働をしていたことが条件となるのですが,厚労省は,医師の「当直」時間を就労時間とは認めていません(医師がほとんど眠る時間がないほど働いている現実があるというのに,「当直とは夜回り程度の軽い仕事だから労働とは言えない」と言うのです)。というわけで,医師が過労死を認定されるためには,当直以外に月100時間を超える時間外労働をしていなければならないのです(Tさんの場合も,当直以外に100時間を超える時間外労働をしていたからこそ労災が認定されたに違いありません)。

 それにしてもTさん,97年に亡くなられたあなたにとって「厚労省」とは耳慣れない言葉でしたね。あなたが亡くなられた後,厚生省と労働省が統合され,いまは,医療を管轄すべき省が,労働基準法の遵守を監督・徹底すべき省にもなったのですが,医療と労働の両方の「本丸」となったというのに,「当直時間は就労時間にカウントしない」という「トリック」を使うことで,日本中の医師が労働基準法違反の過重労働を強いられている現実から目を逸らし続けているのです。

 厚労省が目を逸らしているのは過重労働の問題だけではありません。過重労働の根本原因である医師不足の問題についても,「医師偏在の問題」と言い換えていることでもわかるように,不足がきわめて深刻な事態にある事実そのものを認めようとはしていないのです(「偏在」というのは,余っている地域と足りない地域とばらつきがある状態を言うのだと思うのですが,日本のどこに行ったら,産科・小児科の医師が余っているというのでしょうか?)

 Tさん,過労死の犠牲となられたあなたにいまさら言う必要もないことでしょうが,日本の医療が世界に冠たる「低コスト」で運営されてきた秘密は,実は,医療者たちが過重労働をいとわず,黙々と働き続けてきたことにあったのです。それが,いま,「もう体が持たない」と音をあげた医師たちが,勤務医を辞めて開業医に転向する事例が跡を絶たず,病院の医師不足はますます深刻化しているのです。日本の医療を支えてきた大本の柱が,いま,荷重に耐えかねて折れようとしているのですが,医療が崩壊の危機に瀕しているというのに,政府はさらなる医療費抑制を進めようとしているのですから,私としては背筋が寒くなるような恐怖感を覚えざるを得ません。

 Tさん,あなたの死が図らずも実証したように,医師不足についても,医師の過重労働についても,日本の医療は,すでに,少なくとも9年前には深刻な事態に陥っていました。それなのに,厚労省も政治家も,この9年間,当直時間は就労時間に含めないというトリックを使い続けたり,不足を「偏在」と言い換えたりすることで,問題の「存在」そのものさえ認めようとはしてこなかったのです。脳細胞の活動を「denial」のフェースで止めたままの人たちがこの国の医療政策を司ってきたのですから,いつまでたっても事態が改善するはずなどなかったのです。

 Tさん,あなたが生きている間に聞いておけばよかったと,いま,私が後悔していることが一つあります。あなたが,「よくなるよ」と,患児に使っていたケロンパの絆創膏,いったいどこに行ったら手に入るのですか? もし,手に入ったら,「早くよくなるといいね」と,厚労省の官僚や政治家たちの頭に貼ってやりたいのですが……。

つづく