医学界新聞

 

【寄稿】

リビングウィルを蘇生する
米国高齢者医療の視点

伊藤 康太(コーネル大学医学部一般内科・米国保健福祉省医療研究品質局フェロー)


S婦人(その1)

 「末期状態かつ死が切迫する状況において,私は緩和治療を除くいかなる積極的治療も望みません」

 S婦人は認知症の診断を受けた3年前にリビングウィルを作成していた。86歳を迎える老婦人は持病の心不全のため,在宅酸素と車椅子こそ手放せなかったものの,在宅で家族と穏やかな日々を送るまで回復していた。その一方で進行する認知症は彼女の高次機能を確実に奪っていた。ホスピスへの入所基準に照らし,彼女は医師からは末期患者とみなされていた。

 急変の一報を受けた時すでに,彼女は大量の胸水貯留による重度の急性呼吸不全に陥っていた。ベッドサイドではリビングウィルに準じ,モルヒネの持続点滴が開始されようとしていた。かろうじて私を認識した彼女は,小さな声で何かを懸命に伝えようとしていた。耳を澄ます。「治療をして。あと3か月は生きていたいの」

患者の自己決定とリビングウィル

 自己決定の精神を建国以来の美徳とする米国にあって,患者が自己決定権を獲得したのは,The Patient Self―Determination Act(以下,PSDA)が連邦議会を通過した1991年のことです。1970年代以降の医療技術の進歩がもたらしたのは,その恩恵により死にこそ至らずも,しかし,いかなる医療をもってしても機能的回復が困難な患者群でした。今日,米国におけるもっとも日常的な死は彼らに,つまり高齢に加え複数の慢性疾患と機能障害を抱え,他者からの援助に依存した期間を数年間経た後に訪れます。彼らの4割は終末期において認知障害を有し,治療方針に関する意思表示を行うことが事実上困難となります。結果,病院における死の多くが,医師主導の直接的行為(治療を中止する)もしくは行為不履行(治療を開始しない)に起因するところとなりました。

 PSDAを契機に公的医療保険の給付を受けるすべての医療機関は,治療方針の決定段階において患者の自己決定権を最大限に尊重する手続き上の義務を負うところとなります。本稿の主題であるリビングウィルは,何らかの理由で患者自身の判断能力が失われた状況を仮定し,望むであろう医療を事前に明文化したものであります。「末期状態」「回復の見込みが薄い場合」「植物状態に陥った場合」等の特定の状況下で特定の治療手段の是非を選択する形式がもっとも一般的となっています。

S婦人(その2)

 除水が可能なら短期の人工呼吸器管理で回復するチャンスはある。さもなくば呼吸苦を緩和できたとしても,彼女の命は絶える。直感的に治療の妥当性を感じたが,認知症に加え呼吸不全状態にある彼女にまっとうな判断能力があるか確信はなかった。家族にはリビングウィルがS婦人の現在の意思に反している可能性があることを率直に伝えた。誰として彼女の翻意を説明できる者はいなかったが,われわれはリビングウィルを覆す決断を下した。同時に集中治療科からは「医学的不毛」の観点から倫理委員会による査閲が要請された。

リビングウィルは患者本位の医療を実現したか?

 自己決定こそ患者の尊厳を守るという信念に支えられ,PSDAは実質的な精査・実証を経ることなく,一気に法制化に至りました。発効から15年後の米国で再び,リビングウィルの意義が見直されつつあります。

(1)リビングウィルが米国民に深く浸透している,という誤解
 過半数の米国民が健康なうちに自らの終末期医療について医師に相談したいと答える一方で,リビングウィルの普及率は国民全体の25%に満たず,PSDAの発効が追い風とはならなかったことが報告されています。

(2)患者が正しい医療知識に基づいてリビングウィルを作成している,という誤解
 7割のリビングウィルが自らの知識を,もしくは弁護士の助言を頼りに作成されていることが知られています。いまだリビングウィルが医師・患者間の相互理解を深めたという報告はなく,3割以上の患者が予後や治療効果に関する誤った認識を基にリビングウィルを作成しています。文中で用いられる曖昧な用語・表現が臨床現場での適用に限界をもたらすことはむしろ日常的です。

(3)医師が患者のリビングウィルを尊重して治療方針を決定する,という誤解
 メディアを騒がせたSUPPORT研究は,リビングウィル提示の如何に関わらず,重症患者の多くが死の直前,医師の裁量で望まない侵襲的治療を受けてきたことを証明しました。その一方で医師は患者のQOLを本人の感じる以上に低く評価し,彼らのみなす低QOLの高齢者は積極的治療を望まないという先入観を持つ傾向が指摘されています。長期療養施設の高齢者のうち25%が意思に反する治療を受け,その大半が過剰ではなく過小医療の対象となっていたという報告があります。

(4)リビングウィルは絶対である,という誤解
 相対的に良好な健康状態にある人間が死を目前にした状況を語ったとして,それにどれほどの信頼性を置けるか,実はよくわかっていません。3割の患者が土壇場では家族に決断を下してほしいと感じており,リビングウィルの遵守を厳格に望んでいるわけではありません。特に健康状態の悪化に伴い,多くの患者が積極的治療へ傾いていくことはよく知られた事実です。

変容した患者の自己決定

 医師にとって末期認定ほど不確実ながら重い決断はなく,医療が死期をいたずらに引き延ばすケースを的確に見極めることは現代医療にとって最大の難題です。「心停止したら電気ショックをかけてほしいか?」「呼吸停止したら機械につないでほしいか?」難題を避けて通る医師は,自己決定を錦の御旗に,唐突にも極端なシナリオを患者に提示し選択を促します。あたかも生と死の二者択一を余儀なくされた患者は,引き続いて蘇生措置を指示する対象(full code),または指示しない対象(DNR)の2群へと分別されるのです。その過程で医師の大部分は決して中立の立場を崩そうとせず,患者が決断にまで至った背景をきめ細かく考察することは稀です。

 本来ならば死の直前15分間どう治療すべきかを定めたこれらの指示が,拡大解釈の末に治療全般の方向性にまで重大な影響を及ぼしている事実は過去の研究が証明しています。つまり分別が終了した時点から,医師の裁量で治療の中止もしくは不履行が延命についてだけでなく,救命すなわち治癒の希望が残されている段階でも行われる可能性はきわめて高いと結論せざるを得ません。さらに私自身が経験した,自己決定できない長期療養施設の高齢者にさえ機械的にDNRが指示されている現実は,高齢者の生存権への行き過ぎた否定であります。医師の求める患者の自己決定とは,医師自身が困難な決断から逃れるための免罪符なのかもしれません。

S婦人(その3)

 数日後危機を脱したS婦人が明かしたのは,家族の不在時に彼女の元を訪ねていた善意の高校生の存在であった。3か月後進学のため加州へ発つ彼女を,S婦人は見届ける約束を交わしていた。ほどなくしてS婦人と家族は倫理委員会へ査閲の中止を働きかけてくれた。彼女に60余年前,不慮の事故で失った同年齢の娘がいたのを知ったのは,しばらくしてからのことであった。私は主治医でありながら,彼女の現在の生きがいを感知すらすることなく,過去の自己決定を優先して助かる命を見捨てようとしていたのである。

リビングウィルを蘇生する

 現行のリビングウィルが患者の多様な価値観を正確に捉えているとは,私は考えません。そもそも患者の望むゴールとは治療手段によって限定される性格のものではなく,むしろ治療手段のほうが各々のゴールに沿って設定されるべきものであるからです。無論,医師には患者の望むゴールを常に医療に反映させるだけの特別な器量が備わっているわけではありません。しかしそれを理由として死の自己決定を患者個人に課すことは一見有効なようでいて,実際に米国において患者の自己決定の理念を著しく歪める結果をもたらしていることを忘れるべきではありません。

 「患者と語り合い,彼らの生きがいを見出しなさい。そのひとつひとつが,彼らのリビングウィルだ」

 ある老年病内科医は経験の浅い私に,己の科学的・倫理的素養を総動員して患者にとって最善と信ずる医療へと導いていくことも医師としての大切な使命であると繰り返し教授しました。それは決して医師の権威主義の復権を意味するものではなく,患者の自己決定と相反するものでもありません。患者がどのような死生観を持とうと,変わらずQOLを高めるよう努めるのが医師の責務であるからです。

 未来を構築していくうえで希望は不可欠です。果たして法の整備だけで,患者に希望はもたらされるのでしょうか? 米国の経験を教訓とするならば,画一的に治療手段への白黒を問う時代から一歩前進し,われわれが切り拓くべきは,患者固有の価値観の達成を目指したもっと人間的なリビングウィルなのではないでしょうか。


伊藤康太氏
1998年東医歯大卒。横須賀米海軍病院インターンシップ,三井記念病院内科臨床研修,べスイスラエルメディカルセンター内科レジデンシー,ハーバード大医学部老年病内科フェローシップを修了。2006年より現職。