医学界新聞

 

〔連載〕
感染症Up-to-date
ジュネーブの窓から

第11回 北スマトラ:鳥インフルエンザ感染患者のクラスター

砂川富正(国立感染症研究所感染症情報センター)


前回よりつづく

はじめに

 やはり,この事例については触れなければならないだろう。この春,インドネシア・スマトラ島北部で発生した鳥インフルエンザのヒト集団感染事例がそれである。この事例は世界的に大きな関心を呼んだが,インドネシアでは,今年に入ってから鳥インフルエンザのヒト感染患者が頻繁に報告されていた。特にこの春は,一時期“2日に1人の患者が報告される”と表現するメディアもあったほどである(7月4日現在,2006年のインドネシアからのA/H5N1感染確定患者数は35人で世界最多――うち29人が死亡)。

 インドネシアという巨大な国(有人島だけで5000を越す)の各地から散発的な鳥-ヒト感染患者が報告されていたことは,パンデミックにつながるヒト-ヒト感染がこの国のどこかで今にも起こるのではないか,との世界的な懸念を高めた。しかしながら,頻繁に鳥インフルエンザのヒト感染患者情報が寄せられるようになった要因として,インドネシアのサーベイランス強化も理由の一つである可能性は高い,との印象を筆者は持っている。そのような状況下で,北スマトラ州メダン周辺で,世界最大の,鳥インフルエンザ感染のヒト集団発生が起こったとする情報が飛び込んできたのであった。

事例の概要

 この事例の状況について,可能な範囲でまとめてみよう。

 北スマトラ州カロ県において,すべて血縁関係にある8人のうち7人の鳥インフルエンザA/H5N1感染が確定し,残る1人もその疑いが強いとされる集団(クラスター)の存在が検出された。8人中7人が死亡した。この事例の経緯については,これまでも国立感染症研究所感染症情報センターホームページ(http://idsc.nih.go.jp/disease/avian_influenza/
toriinf-whoup.html
)などでもたびたび紹介されてきたので本稿では詳細を取り上げない。

 最初のポイントとしては,第一例(検体を採取されることなく埋葬されたが疫学情報から発端例と認められた女性)については鳥からヒトへの感染の可能性が最も高く,第一例から次の6人の確定例については,発端者の女性が重篤なインフルエンザ様疾患を発症している間に,女性との接触があったことが注目されている。これらの多くの者は,特に4月29日夜にその女性が臥床する小部屋で過ごした。筆者はその部屋の写真を見たが,数人が横になれば足の踏み場もない,密閉された部屋であった。WHOは,“ヒト-ヒト感染が除外できない”とした。

 次に,この確定例6人中の1人の男児が,父親に感染を伝播した可能性が示唆されている。この父親は,病気になった男児を付きっきりでケアしており,メディアの情報をみると,頻回に病気の男児にキスを繰り返していたという。父親の心情は理解できるが,このリスクの高い濃厚な接触が感染を起こしてしまったようだ。一般住民に対する,A/H5N1感染やそのリスクに関する教育が大きな課題であることがあらためて痛感させられる事象であった。

 この父親の死亡より2週間,医療従事者を含む接触者の追跡調査および積極的症例探査が地域で行われ,それ以上の感染拡大は認められず,事例は終息した。次の重要なポイントは,これらの患者より採取されたA/H5N1インフルエンザウイルスの遺伝子レベルの解析結果として,パンデミックにつながる遺伝子再集合(reassortment)を示す証拠は見出されなかったということである。

事例のアセスメント

 今回の状況に関する評価から,WHOによる警報フェーズは,パンデミックアラート期「3」のままで据え置かれた。また接触者の追跡期間中,患者家族や濃厚接触者54人にはタミフルの予防内服および自主的な自宅検疫が行われたが,タミフルを用いた,いわゆる“早期封じ込め作戦”は実施されなかった。その理由は,この事例の疫学的状況は限定的な感染のみを示唆したこと,および採取されたA/H5N1ウイルスが従来の鳥型のままであったということである。すなわち,2004年のベトナムやタイでの事例などと同じく,「限定的な」ヒト-ヒト感染疑い例と変わるものではないとのアセスメントがなされたのであった。つまりA/H5N1は鳥インフルエンザウイルスのまま,ヒトに対しては効率的な伝播を起こす状態には変化していない。濃厚な接触によりウイルスの曝露量が大きい場合にヒト-ヒト感染が発生しうるが,それは家族内や,1997年に香港での血清学的研究で示されたような,感染防御策を行っていない医療従事者への感染例(Bridges et al. J Infect Dis. 2000 Jan;181(1):344-8)に限られる,というものである。

ウイルス変異の意味

 鳥インフルエンザウイルスのままでもヒト-ヒト感染が(非効率ながら)起こりうるという情報に対して,「変異」の有無がメディア上で大きな話題になることが少なくない。意味のない「変異」を問題にすべきではないことは明らかであるが,孤発例であっても重要な遺伝子の変異は確実にモニターされなければならない。

 筆者がたびたび思い出すのが,2003年の,オランダにおける鳥インフルエンザウイルスA/H7N7によるヒト集団感染事例である。この事例では結膜炎などの軽症の症状を主訴とする患者が多発した。また57歳の獣医師が感染し,重篤な肺炎を発症して死亡したことが知られている。周囲とは著しい症状の差である。採取されたウイルスの遺伝子配列からは,原因ウイルスが完全に鳥由来ではあるものの,ウイルス株からは多数の変異が確認され,ウイルスの病原性の増強に関与した可能性が示唆された
http://www.eurosurveillance.org/ew/2004/040226.asp#5)。すなわち,1人の感染者の体内で,周囲のウイルスとは異なる強力なウイルスが出現していたのである。このウイルスが伝播したとの情報はない。

 鳥インフルエンザウイルスがパンデミックウイルスに変化する際には,(1)豚の体内で鳥とヒトのインフルエンザウイルスの交雑が発生,に加えて,(2)ヒトのインフルエンザウイルスに感染したヒトの体内で,鳥インフルエンザウイルスとの交雑が起こる,(3)鳥インフルエンザウイルスに感染したヒトの体内で突然変異が起こり,ヒト型へと変異するという3つのパターンがあることが知られる。

 パンデミック発生防止のためには鳥インフルエンザウイルスのヒトや動物への感染を遮断しなければならないが,1人の体内でも変異は起こりうる。一度新型インフルエンザの発生が始まってしまった場合の,鳥インフルエンザからパンデミックの発生を阻止あるいは遅延させるためには,発症者の状況などを迅速に把握し必要な公衆衛生方策を採るための疫学調査の実施と,迅速なウイルス学的検査の両輪が今まで以上に欠かせない。

つづく