医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

29R

医者の病気

名郷直樹   地域医療振興協会 地域医療研修センター長
東京北社会保険病院
横須賀市立うわまち病院
市立伊東市民病院臨床研修センター長


前回2682号

▽月×日

 今日は何もない。何もないことにしよう。そんな時,友人の一人から久しぶりの電話。そばでも食いに行こう。ジャストタイミング。ちょうどそばでも食いたい気分。音を立ててそばをすすりたい。濃い目のそばつゆと,たっぷりのわさびで。そば屋では,大相撲中継が流れている。ラジオから。

 しかし,現実はぜんぜん違う。もう終電も真近い。そば屋なんかとっくに閉まっていて,友人からの電話もなく,大相撲中継の時間なんかは,もうはるかかなた。どうせ朝青龍独走だし。そばも食わずに帰宅する。

 遅い夕食を食べていると,あまりの無口に,家族が言う。今日は何にもしゃべらないんだね。そう,今日は何も言わない,なんて言いたいところだが,そう? 別に変わりないけど,なんて適当にごまかす。

 「熱いお茶をくれないか。煎茶より,番茶がいいな」

 「あたし,入れるよ」

 「この番茶,うまいな」

 話のわからない人にわかってもらうのは無理だ。なんといってもわからないのだから。さらに悪いことには,わからないことを決してわかろうとしない。わかった,わかったと,そればかり繰り返す。お願いだから,わからないと言ってくれ。でも無理だな。こっちはといえば,わかったという答えに逆らって,あなた方の言うことはさっぱりわからない,理解できない,とひたすら反対を繰り返す。でも本当は,こっちはこっちでわかったつもりでいるのだけど。

 唐突だけど,テレビで誰かが言う。

 医者は,自分の病気は決して治さない。患者の病気だけ治そうとする。医者はまず自分の病気を治せ。

 いいこと言う。まったくその通りだ。医者は病気だと思う。自分自身を疑うことができない,自分自身の前提を疑えないという病気だ。でも医者自身が自分を,さらにはその仕事を,疑うことはなかなか難しい。病気の人を助ける,そんないい仕事を否定する人はいない。人を助けることが本当にいいことなのか,そんな疑いをもって考えるのは,普通はどこかいかれた人だ。そう考えれば,いかれているのは私で,彼らではない。さらに厄介なことには,疑うだけですめばいいが,日々の仕事や自分自身を否定することにたやすく繋がる。自分自身を否定されて,平気でいられる人はいない。でもかれらの前提をどうにかしてくれなんて思わない。そっちはそのままで結構なので,こっちの前提がどんな前提か,少しは考えてくれないだろうか。お願い。

 へき地医療の現場では,その前提から疑わなければ何も始まらない。12年間のへき地での勤務から学んだこと。病気の人を助けるだけではなく,病気の人を助けないということ。両方を含まなければ,医療ではないということ。助けないという選択肢があって,初めて助けるという選択肢があるのだ。生きるということは,生きると死ぬとあわせて生きるなのだ! ついつい興奮してしまう。落ち着こう。高血圧を治療するということ,治療しないということを含めなければ,医療を提供するとはいえないこと。そこからすべてが始まった。それまでは,初期研修で学んだ前提を,へき地の現場に無理やり当てはめていただけ。そこの前提を問い直さなければ,何も始まらない,それがこっちの前提。

 病気の人を助ける,それを盾に,さまざまなことが医師の都合で思わぬものにすりかえられていく。

 「助けないことには始まらないだろう。まずそうした技術をつけること以外に何を学ぶことがあるか。それ以外のことは,そのあとゆっくりやればいいじゃないか。へき地のための特殊な研修は,もっとあとでいいだろう」

 そんな正論を吐くけれども,そういう間に,気がつくと助けないことの重要性なんて忘れている。どうしてこの患者に降圧剤を投与していないんだ。スタートもゴールも結局同じじゃないか。

 へき地医療に重要なことは,病棟の中では,あまりに簡単に忘れ去られる。そのなれの果てがかれらじゃないか。ただ臓器別専門医であるかれらは,別にそれでもいいだろう。助けることが仕事なんだから。でもこっちは違うんだ。彼らと同じ前提でやっているわけじゃないんだ。助けることが本当に医者の仕事なのかと疑うことが,スタートなんだ。決してゴールじゃない。

 こんなことを書くのはつまらない。どんなに理屈をつけてみたところで,単なる自分の感情の垂れ流しに過ぎない。要するに嫌いなのだ。どんな理屈をつけたって,しいたけがどうしても食えない子供に,無理やりしいたけを食わすようなものだ。

 相性が悪いのだ,そう片付けてしまいたい。阿部一族って,そんな話だったような気がする。君主と相性の悪い家臣が,君主の死に面して殉死を許されず,許しがないにもかかわらず切腹したために,家ごと根絶やしにされてしまう。読んでみて,どうも相性があわない以外に,こんな仕打ちを受ける理由が見つからない。そんな話のように思い出す。相性,侮るなかれだ。一昔前なら,私も阿部一族ならぬ丹谷郷一族か。

 書いてどうなる。でも日記を書くというのは自分にとって大事なことだ。そう思う。自分のことを書くのと,自分以外のことを書くのと,どちらが日記なのだろう。あるいは,あったことを書きとめるのと,それについて考えたことを書き留めるのと。どちらが日記なのだろうか。あるいは,あったこと自体を考えるのが日記なのか,あったことを通して考えるのが日記なのか。読まれないことを考えて書くのか,読まれることを考えて書くのか。だいたいは,自分のこと,あったことについて考えたこと,それを通して考えたこと,そして,誰かに読まれることを考えて,というのが自分の日記だ。

 小説は,書いているとき,読んでいるときだけ存在する,なんていった小説家がいる。同じように,人生は,生きているときだけ存在する。そうだとすると,日記を書いているときに,人生は存在するのだろうか。日記もできることなら,書いているときだけ存在するといい。そんな日記が書けるなら。

 へき地に長くいることで,私の病気はかなり治ってきた。相当重症だったけど。でもまだ完治にはほど遠く,しばらくは治療の継続が必要だ。治療をやめればすぐ再発する。まずは自分の治療の継続が第一だ。人の治療をしている場合じゃない。そういうことにしておこう。ではまたあした。


名郷直樹

1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。