医学界新聞

 

ストレスマネジメント
その理論と実践

[ 第2回 はじめてのヒヤリ・ハットレポート ]

久保田聰美(高知女子大学大学院 健康生活科学研究科 博士課程(後期))


前回よりつづく

 新しい年度を迎え病院にも新人ナースがやってくるこの時期,迎える側もその準備や対応に追われます。医療事故が多発する現状において,実施者として法的責任が問われる可能性も高い看護職はその基礎教育から医療安全に膨大な時間とエネルギーを費やしています。

 しかし,その結果,これまでのような患者の直接ケアに関わる技術を身につける時間が減り,卒後の現場での技術に関して強い不安を持ちながら働く新人が増えてしまうという皮肉な現象が起きています。つまり,卒後すぐに現場に出た新人ナースは,自分の看護技術に自信がなく,いつ自分が事故を起こすのではないかという不安と背中合わせで仕事をしているのです。

 それは,「新卒看護職員の早期離職等実態調査」(2004年日本看護協会)において,新卒看護職員の仕事を続けるうえでの悩みの上位に「医療事故を起こさないか不安である(69.4%)」や「ヒヤリ・ハット(インシデント)レポートを書いた(58.8%)」と,医療安全に関する項目が占めている事実が,その実態を物語っています(表)。

 新卒看護職員の仕事を続けるうえでの悩み(複数回答上位4位)
(新卒看護職員n=741,日看協「新卒看護職員の早期離職等実態調査」より)
1.配置部門の専門的な知識・技術が不足している 76.90%
2.医療事故を起こさないか不安である 69.40%
3.基本的な技術が身についていない 67.10%
4.ヒヤリ・ハット(インシデント)レポートを書いた 58.80%

プリセプターシップにおけるコミュニケーションスキル

 そんな不安な状況を先輩たちはどれほどわかっているでしょうか? そこで,せめて新人ナースのいちばん身近な相談役となるプリセプターには,新人ナースのそうした不安を理解するための研修の機会をつくろうと考えました。それは,プリセプター研修での一場面,時期的には,徐々に実践の業務もこなし始めた4月後半です。「プリセプターシップにおけるコミュニケーションスキル」と題して,ロールプレイを組み込んだ研修を企画しました。いくつかのロールプレイ場面の中に,「はじめてのヒヤリ・ハットレポートを書く(書かせる)」というシーンを導入しました。

 具体的には,下記のような設定です。

 心不全で入院中の85歳の女性の患者さん。医師の指示は,「輸液は500mlを12時間かけてゆっくり!」という内容。しかし,輸液の管理を怠ったために1時間で200mlも落としてしまった。それも申し送り直後の準夜勤の先輩ナースに指摘され気づく始末。幸い発見が早かったため,バイタルに変化はなかった。「院内規定ではインシデントかどうかというところだけど,今回はヒヤリ・ハットでいいわ」とヒヤリ・ハットレポートを書くよう指示された新人とプリセプター。

 プリセプティ(新人ナース),プリセプター,観察者の3人一組になって,一生懸命新人ナースの心情を考え,ロールプレイを実践します。

新人ナース「すみません,すみません……」(とうなだれる)
プリセプター「新人の頃は私も何枚も書いたから……。これはみんなで情報共有するためのもので,反省させるためのものじゃないから」

 といった調子です。それぞれが本当に真剣で,言葉だけでなく,新人ナースを思いなんとかフォローしたいという思いが伝わってくるようなロールプレイでした。コミュニケーションにおける,ノンバーバル(非言語的)情報は,80%とも90%ともいわれますが,それを肌で感じることができる場面でした。

 そんな中,あるグループに異変が起こりました。プリセプター役のひとりが泣き出してしまったのです。彼女によれば,自分が新人ナースの時,はじめてヒヤリ・ハットレポートを書いた時のつらい気持ちがフラッシュバックされてきたというのです。このまま看護師を続けることさえ自分は許されないのではないかという思いで仕事をしていた時に,やさしい声をかけてくれた先輩と同じ言葉を目の前の新人ナース役に話しかけている自分に気づいた時,涙が溢れ出したということでした。

 その場は,感情のコントロールがうまくできない自分を少し恥じるかの素振りをみせる彼女に対して,「あなたのその感受性の強さは看護師にとってはとても大切なものだから」と,支持・受容することに努めました。次に,他の受講者には,「彼女のような強い感受性を持つ人がいることを理解する大切さを学んでほしい」と話して,その研修は終了しました。

新人ナースのストレスと管理者の支援

 現在筆者は,研究の中で,看護師の仕事の継続に関わるストレス(看護師を辞めようとまで考えたストレス)について面接調査をしています。対象者は,10年以上の経験者がほとんどです。しかし,そんな方々でも,看護師を辞めたいと思ったのは「インシデントやアクシデントを起こした時」と答えています。そして,そこで辞めずに現在も働き続けられているのは,「同僚や上司,先輩の声がけと支え」だということでした。前述の日本看護協会の調査では,イマドキの新人さんは,「支えは同期の同僚」ということですが,上司や先輩の名前が出てこないのが少し淋しい気がします。

 こうして考えていくと新人ナースにとっても,ベテランにとっても,ヒヤリ・ハットやインシデントレポートを書くことは相当なストレスであることは事実です。となると,そうした事例に関わる管理者の役割も重要になってきます。

 ただ,最近は医療安全の専任スタッフを配置する病院も増え,そうしたレポートは所属長を経由せず,直接専任スタッフに提出されるシステムが定着してきました。以前のように師長さんや主任さんの顔色を伺いながらレポートを出すストレスは減ったかもしれません。それでもレポート類をシステムの改善に結びつけるためには,当該部署へのフィードバックは不可欠です。ヒヤリ・ハットやインシデントの報告システムをいくら変えても所属長や周りのスタッフはその事実を知っていますし,当事者もそのことを肌で感じています。所属長を経由しないレポートシステムは,管理者の当該スタッフへの精神的支援をかえって阻害する要因になっているかもしれません。

 一方,あらゆる書類はすべて所属長経由でタテのラインを重視する組織もまだまだあります。しかし,マニュアルや書類の溢れる現状では,一枚一枚の報告書の向こうにあるスタッフ一人ひとりの顔を思い浮かべ,気になるスタッフにはサポーティブな関わりを持つことは至難の技です。たとえ,その必要性は理解していても,交代勤務の多い看護職は,タイムリーな関わりを持つことは困難な環境があります。それが看護の現場で管理者にコーチングのスキルが根付かない要因のひとつかもしれません。

 それでもスタッフはよく見ています。師長さんや主任さんの言動を。「大丈夫?」のひと言でも,あなたのことを心配しているというサインを送ることが大切です。可能な限り,face to faceで,難しければロッカーやタイムカードにメモ書きひとつでも。最近では,メールという便利なツールもあります(しかしこのツールは,相手や内容によっては逆効果の時もあるので要注意)。そうしたサインを送ることが,コーチングの主要なスキルである“承認”のはじめの一歩です。

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 ここまで来て,ふと思い出しました。前述のロールプレイは,研修前夜にふと思いついて設定した場面でしたが,筆者自身が20年近く前に新人ナースとして働いていた頃,はじめてインシデントレポートを書いた事例とそっくりでした。新人ナースのストレスはこうして心の根っこにつながっているのかもしれません。


久保田聰美
保健師として働く人の健康づくりに関わったのち,近森病院で看護管理者として勤務。同時に産業カウンセラーとしてメンタルヘルス対策事業に取り組む。現在は病院を休職し,研究に専念。