医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第84回

ピル(医療と性と政治)(15)
政府による避妊支援と黒人の不信

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2681号よりつづく

連邦政府の目論見

 ピルの普及とともに,避妊についての為政者の姿勢も変わることとなった。米国では,ずっと避妊についての情報を流布することさえ「非合法」であったし,連邦政府が避妊普及のための活動に取り組むなど想像もできない時代が続いたのだが,ジョンソン大統領が,1964年にテキサス州はガルベストンに連邦政府の資金援助の下に産児調節クリニックを開設するパイロット・プロジェクトを実施した後,低所得者に対する産児調節支援は,あっという間に政府肝いりの大プロジェクトへと成長した。

 連邦政府による公費支援の下,全米に2000を超える産児調節クリニックが開設されるとともに,ジョンソンの跡を継いだニクソン大統領も低所得者に対する産児調節支援を継続,64年にはわずか8000ドルにしかすぎなかった連邦政府予算も,73年には1億9000万ドルへとふくれあがり,400万人の女性が恩恵をこうむることになった。当時,世界的に「人口爆発」に対する懸念が喧伝されていたこともあったが,「低所得者の出生数を減らせば,長期的には生活保護などの社会福祉支出を減らすことができる」という目論見から,連邦政府は産児調節支援に力を入れたのだった。

黒人コミュニティの強い疑念

 しかし,政府が「お墨付き」を与えてまで産児調節を推進することに,強い疑念をいだいたのが黒人コミュニティだった。米国で黒人が差別されてきた歴史が長いことは今さら言うまでもないが,産児調節についても白人の「支配」を受けてきた歴史があっただけに,黒人の不信は根が深かった。例えば,奴隷制の時代,奴隷を所有する白人は,「商品」を増やしたいという理由で黒人女性の多産を奨励したが,逆に,奴隷解放後は,白人優位主義を信奉する南部の白人が,「黒人は生まれる前にやってしまえ」とばかりに,黒人女性に不妊手術を強制した過去があったのである。

 そういった歴史的背景があるだけに,産児調節は,黒人にとって非常にセンシティブな問題であったし,なによりも,マイノリティとしてずっと差別されてきた黒人にとって,「数」は力を意味した。政府が推進する低所得者に対する産児調節支援は,黒人に低所得者が多かっただけに,「黒人を標的としてその出生数を減らすための陰謀」という,強い疑念を招来したのだった。

 ジョンソン,ニクソン両大統領の下,低所得者は,産児調節クリニックに行けば無料でピルがもらえるという制度になったのだが,皮肉なことに,「無料でもらえる」という福祉サービスが,かえって,「白人たちが何の見返りも期待せずにわれわれにいいことをするはずがない」という黒人たちの不信を煽ることになった。黒人コミュニティの間に,「ピルには白人用と黒人用の2種類があって,白人用は避妊目的だが,黒人用は女性を『不妊』にすることが目的」という噂が広まったり,さらには,「産児調節は黒人を『根絶やし』にするための政府の陰謀」と唱える政治グループまで現れ,黒人居住地域の産児調節クリニックに火炎瓶が投げつけられる事件が起こったりしたのだった。

タスケジー・スタディの残した副作用

 もともと,黒人は公権力一般に対して強い不信感を抱いているが,「医療」についての不信はとりわけ根深いものがあり,黒人の医療不信を決定的にしたのが,「タスケジー・スタディ」だったと言われている。タスケジー・スタディとは,アラバマ州タスケジーを舞台に,米国公衆衛生局が1932年から40年間にわたって実施した研究であるが,「梅毒治療の研究」と言って数百人の被験者(すべて黒人)を集めておきながら,実は何も治療をせずに「自然経過」を観察したという,医学研究史上最大級と言ってもいい,非倫理的研究だった。

 タスケジー・スタディで決定的になった黒人の根深い医療不信は,現在,米国公衆衛生現場の諸所で,大きな障害となって立ちはだかっている。例えば,「エイズは黒人を根絶やしにするために政府が作った病気」と信ずる黒人は多く,HIVの感染防止対策が徹底できない原因となっている。

 エイズについての黒人の不信については,昨年,シンクタンクのランド・コーポレーションが調査をしたデータが代表的だが,黒人のうち,「HIVは人工的に作られた」が48%,「エイズには実は治療法が確立されているが貧しい人々にはアクセスが許されていない」が53%,「エイズは黒人を根絶やしにするためのものだ」が15%に信じられているのである。

 黒人活動家の中には,「コンドームでHIVの感染を防ぐというのは嘘。コンドームを使うとアレルギー反応が進行してHIV抗体が陽性に出やすくなり,抗体が陽性になると,今度は,政府の治療研究のモルモットにされる。だからコンドームは使ってはいけない」という荒唐無稽な説を真剣に唱える人までいるのである。かくも荒唐無稽な説が黒人の間にどれだけ受け入れられているかは定かではないが,人口の13%を占めるにすぎない黒人が,毎年,HIV新感染者の半数を占めるという厳しい現実が存在することだけは確かなのである。「タスケジー・スタディは,多くの黒人がエイズで殺されるという副作用を残した」と言われる所以である。

この項つづく