医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第80回

ピル(医療と性と政治)(11)
認可

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2673号よりつづく

〈前回までのあらすじ:ピルの臨床試験は成功,劇的ともいうべき避妊効果が確認された〉

FDAと製薬会社の懸念

 ボストン,そしてプエルトリコでの臨床試験データに基づいて,GDサール社が,FDAに,経口避妊薬「エノビッド」の認可申請を提出したのは,1959年10月のことだった。被験者となった女性897人,性周期ののべ数1万427サイクルと,FDA史上,最大規模の臨床試験データを添えての認可申請だった。

 エノビッドは,すでに,1957年に,「月経困難症」の治療薬として認可されていた。しかし,特定疾患の治療薬としてではなく,健康な女性に対して,「避妊」を目的として使用することの認可申請に,社会,特にローマ教会を始めとする宗教界が猛反発するのではないかと懸念したFDAは,認可に慎重な姿勢を示した。

 宗教界をはじめ,社会が猛反発するのではないかと神経質になっていたのは,認可申請を提出した,当のGDサール社も変わらなかった。経口避妊薬市販に備え,同社の広報戦略を担当したのは,ジェームズ・アーウィンだったが,アーウィンによると,当初の懸念とは裏腹に,社会的反発は拍子抜けするほど少なかったという。アーウィンの協力のもと,サタディ・イーブニング・ポストや,リーダーズ・ダイジェスト等のメジャーなメディアに特集記事が載せられたが,「袋叩きにあって歯を失くすことを心配していたが,歯は1本も失くならなかった」と,心配していたアーウィンが驚くほど,経口避妊薬実用化のニュースは,あっさりと社会に受け入れられたのだった。

 一方,GDサール社とは対照的に,ライバルのパーク・デイビス社は,社会的反発の強さを恐れ,認可申請を見合わせた。パーク・デイビス社が一番恐れていたのは,ローマ教会による不買運動だったというが,同社から販売権を得たジョンソン&ジョンソン(J&J)社は,パーク・デイビス社とは反対に,早期の認可申請に向けて動き出した。J&J社は,「認可申請に必要」と,パーク・デイビス社に動物実験のデータ提供を求めたが同社は拒否,J&J社は動物実験を自社の研究施設でやり直さなければならないほど,パーク・デイビス社は及び腰だったのである。

FDAへの苛立ち

 経口避妊薬の認可申請に対し,FDAが慎重になった理由は,社会的反発を恐れたことだけではなかった。「有効性」については疑問の余地はなかったものの,長期連用した場合,たとえば癌発生が増えるのではないかという,「安全性」に対する懸念があったからだった。

 FDAの慎重な姿勢に,苛立ちを強めたのが,ボストンでの臨床試験を主宰したロックだった。ロックは,すでに70歳になっていたし,安閑と待つ気などさらさらなかったからである。ロックは,決定を下そうとしないFDAに対し,ヒアリングの早期開催を申請,12月末,GDサール社医療部門部長アーウィン・ウィンターと2人で,FDA内でのヒアリングに出席することになった。

「あこがれ」と「若造」

 長時間待たされた後,ロックたちが通された部屋で待っていたのは,審査官,パスカル・デフェリース(当時30歳)だった。デフェリースにとって,FDAの審査官の仕事は「アルバイト」にしかすぎず,本業はジョージタウン大学医療センターの産婦人科医だった。まだ,専門医の資格も取得していなかったデフェリースにとって,産婦人科学会の重鎮ロックは,「あこがれ」の存在だったという。

 一方,ロックは,革命的といってもいいほど重要な薬剤の認可審査を担当するのが「若造」の医師であったことに腹が立ってならなかった。ヒアリングの間中,デフェリースのことを名では呼ばず,「お若い方」と呼び続けたことからも,ロックの怒りのほどがわかるが,デフェリースが,ローマ教会からの反発に対する懸念を表明するに及んで怒りが爆発,「『私の』教会を愚弄することは慎みたまえ」と語気を強めたのだった。ロックが敬虔なカソリック信者であることは前々回でも述べたとおりであるが,ロックは,「経口避妊薬は物理的遮蔽による避妊ではないし,ローマ教会の承認を得られるはず」と信じていたからこそ,デフェリースに対して語気を強めたのだった。デフェリースもカソリック信者であったこと,そして,個人的にはローマ教会が荻野式以外の避妊法を認めていなかったことに反対していたことなど,ロックは知る由もなかった。

 1960年5月11日,FDAは,「エノビッド」について,避妊目的の使用を認可した。長期連用時の安全性に対する不安から,「2年を超えない使用」に限るとの限定条件付きであった。1951年,ニューヨークで開かれたディナーの席で,サンガーが,「経口避妊薬」実現の可能性をピンカスに問い質してから,10年と経たない間に,「ピル」は実用化にこぎつけたのだった。

この項つづく