医学界新聞

 

看護のアジェンダ
 看護・医療界の“いま”を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第14回〉
「先生」のひしめく病院社会

井部俊子
聖路加看護大学学長


前回よりつづく

 浅田次郎が,『「先生」とよばれて』というエッセイを書いている(Attending Eye,1巻3号,23頁)。それによると,彼が「先生」と呼ばれるようになったのは40歳を過ぎてからであり,このことは「文壇という社会が小説家として認知した証拠」であり,「その間に挫折する多くの同輩たちの累々たる屍のはるかな先に」ある称号だと書いている。

 さらにその称号としての「先生」が「おのれにふさわしいかというとまったく自信がなく,そう呼ばれるたびに胸を鷲掴みにされるような気がした」うえに,「先生」と呼ばれ続けた今でも,「無窮の文学をきわめてしまったかのような傲慢さ」を感じて恥ずかしいと書いている。この恥ずかしさは,「文壇ばかりではなく,世間から特別扱いされ始めると,いよいよ募る」という。つまり「けっして特別ではない人間が,特別に扱われることに罪悪を感ずる」とも書いている。

 彼はある時,「先生」として特別扱いされて「待合室にひしめくお年寄りや子どもらをさしおいて,特権的に次々と検査」をしてもらうこととなり,「自分が恥ずかしくてならなかった」と書いている。すなわち,『「先生」の称号に甘んじて特権を供されることは,とても恥ずかしい』ことなのである。

本当のチーム医療とは

 目を病院に転じてみよう。病院には「先生」と呼ばれる人たちが数多く存在する。まず「医師」という職種がそうである。薬剤部ではヒラの薬剤師が自分たちのボスを呼ぶ時に「先生」という。看護職はなぜか他職種の職員を称する時に「先生」とつけるのが好きである。理学療法士や作業療法士,言語聴覚士を「先生」という。社会福祉士を「先生」と呼んでいるところもあろう。

 外からの電話の応答や窓口での対応の際に,身内の同僚を指すのに「○○先生は…」などというところもある。こっけいさすら感じるのは,医師になりたての研修医がお互いを「先生」と呼ぶのを耳にする時である。

 『「チーム医療」の理念と現実』(日本看護協会出版会,2003年)を著した社会学者の細田満和子は,臨床現場でのフィールドワークの結果,チーム医療における4つの志向性を提示している。それらは「専門性志向」「患者志向」「職種構成志向」そして「協働志向」であり,これらの要素は「緊張関係」にあるとして,チーム医療の困難性を論述している。

 つまり,チーム医療とは,「病院で複数の医療従事者が業務を行っているという客観的な現象だけでなく,別様ななにものかをも指し示す言葉」であるとし,本当のチーム医療とは,「専門的な知識や技術を有する複数の医療従事者同士が,対等な立場にあるという認識を持った上で実現される協働的な行為」と定義している。

 さらに,「患者をメンバーに加えるという見方を導入すると,チーム医療の様相は異なってくる」とも指摘している。チーム医療は,患者にしてみれば「よけいなお節介」という面もあり,「患者のために何かする」という方向性と,「患者のために何もしないでいる」という在り方も見直されるべきと述べている。

習慣化した「先生」と失われる「対等性」

 看護職にとって,チーム医療における「対等性」の実現にはいくつかの課題がある。とくに看護の専門性へのゆらぎを解消しておかなければならない。さらにまた,看護職が習慣化して用いている他職種への称号「先生」も,この「対等性」へのアプローチの障害になっているのではないか。つまり,「先生」と呼ぶことで,チームメンバーとしての対等性を手放してしまっているのではないかということを前述のエッセイによって気づかされる。

 浅田は,「先生」によって特別扱いされるのを嫌い,「以来,体の変調を他人に訴えることはやめ」て,「ひとりでこっそりと病院に行き,待合室で読書をしながら診察の順番を待つ」ことにしたという。私は最後の文章が潔くて好きだ。『「先生」なのだから,私はそうする』と。

 私も「先生」と呼ばれることは恥ずかしいと思う感性を維持していたい。「先生」と呼ばれるべき人はむしろ患者かもしれないのだから。