医学界新聞

 

シネマ・グラフティ

第12回(最終回)
「過去のない男」


2665号よりつづく

■なぜか笑えるカウリスマキ

 真冬のヘルシンキを訪れたことがある。フィンランドは深刻な自殺の問題を直視し,自殺予防を国の重要な課題ととらえ,粘り強く予防活動を続けてきた。そして,最悪の頃と比較して自殺率を3割下げることに成功した。精神科医の私はその試みから何かを学ぶことができないかと考え,フィンランドを訪れた。

 周囲からはよりによって厳冬期にフィンランドに行くこともないだろうという声が上がった。それでもよいではないか,アキ・カウリスマキ監督が描くヘルシンキにわが身を置くというのもなかなかなものだ。

記憶を失った男の淡い恋

 ある男(マルッキィ・ペルトラ)が深夜にヘルシンキにたどり着いた。ところが,チンピラたちに襲われ,大怪我をし,過去の記憶をすべて失う。

 男は,救世軍の女性イルマ(カティ・オウティネン)と偶然に出会い,互いに魅かれていく。記憶は戻らないものの,その男は,救世軍のためにロック・コンサートを企画したりして,徐々に元気を取り戻す。

 しかし,男はたまたま運悪く銀行強盗に間違えられてしまう。彼の写真が新聞に大きく掲載され,それを見た女(アイノ・セッポ)から警察に連絡が入る。実は彼女こそ,その男の妻だった。男の名がヤッコ・アンテロ・ルイヤネンということも明らかになる。

 男はイルマとの別れを惜しみながら,住んでいた町に戻っていく。しかし,過去が明らかにされたとはいえ,記憶が戻ったわけではない。教えられた事実が,彼には確実に自分のものとは思えず,何の感慨もわかない。失踪中に妻とは離婚も成立していた。そもそも,夫婦の仲はすでに長い間冷え切っていたために,彼が自宅のある町から離れたというのが真相だった。

 結局,男は,妻を新しい恋人に託して,再びヘルシンキに戻り,イルマのもとに向かう。

夜汽車の寿司と「ハワイの夜」

 アキ・カウリスマキといえば,最近のヨーロッパを代表する映画監督のひとりである。「コントラクト・キラー」「マッチ工場の少女」「浮き雲」「愛しのタチアナ」と数々の作品が日本でも上映され,根強い人気がある。どれもどちらかといえば題材は暗いのだが,その中で思わずニヤリとさせられるような場面が時折出てきて,不思議な雰囲気を伝えている。

 「過去のない男」でも,以前に住んでいた町に戻る夜汽車の中で,男が寿司を食べるシーンがある。そして,突然,背景に日本語の歌が流れる。クレージー・ケン・バンドの「ハワイの夜」だ。これはカウリスマキ独特の遊びらしく,少なくとも私がヘルシンキを訪れた際にはこのような場面は確認できなかった。

 さて,カウリスマキ監督は「過去のない男」で2002年度のカンヌ映画祭グランプリを受賞した。そのスピーチがふるっていた。「まず私に感謝。そして,審査員にも」とだけ言って舞台を去ったのだ。史上最短のスピーチに対して拍手が鳴り止まなかった。

 どこの職場でも,会議でひとり延々と話し続ける野暮な人がいるが,カウリスマキを見習ってほしい。もっともこういう人が映画好きであったためしがないのだが。

(連載おわり)

「過去のない男」2002年,フィンランド
監督,製作,脚本:アキ・カウリスマキ
出演:マルッキィ・ペルトラ,カティ・オウティネン,アイノ・セッポ

©SPUTNIK OY 2002,発売元:ユーロスペース


高橋祥友
防衛医科大学校防衛医学研究センター・教授。精神科医。映画鑑賞が最高のメンタルヘルス対策で,近著『シネマ処方箋』(梧桐書院)ではこころを癒す映画を紹介。専門は自殺予防。『医療者が知っておきたい自殺のリスクマネジメント』(医学書院)など著書多数。