医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第77回

閑話休題
「大泥棒の医療保険」

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2668号よりつづく

 いま,日本では,何が何でも「小さな政府」がいいと,医療保険についても「『公』を減らして『民』を増やす」ことに躍起となっている人たちがいるようだが,「民」主体の医療保険制度がどれだけ国民に過重な負担を強いることになるか,わかったうえでしておられることなのだろうか? 先進国で唯一「民」主体の制度を運営している米国の実情がどれだけ苛酷なものであるか,そのことをご理解いただくために,今回は,いささかの私怨をこめつつ,「大泥棒の医療保険」の話をしよう。

 米国犯罪史上に名を残す大泥棒,「ディナー・セット・ギャング」が活躍したのは,主に60年代後半から70年代にかけてのことであった。大金持ちの邸宅に忍び入って貴金属等を盗むのだが,主が客を招いて夕食会を開くタイミングをねらって「仕事」をする独特の手口が,その名の由来だった。なぜ,ディナー時をねらうかというと,「大金持ちの夕食会は,時間も長いうえに,主も客も滅多に室外に出ないから,邪魔をされずに『仕事』ができる」というのがその理由であった。

 周知のように,米国の大金持ちは,渡り鳥のように,季節によって南北を移動する習性があるが,彼らは,高価な宝飾品を留守宅に置いておけないという,「用心深い」習性も併せ持っている。だから,ディナー・セット・ギャングの仕事場も,夏は,ニューヨーク,コネチカットなどの東海岸北部,冬はフロリダと,大金持ちという「鴨」が背負うネギの動きに合わせて移動したのだった。

「現役」復帰の理由

 こうして東海岸を股にかけて稼ぎまくったディナー・セット・ギャングだったが,80年代になるとなりをひそめ,引退したものと信じられていた。それが,91年に突然「現役」復帰,それも,ひと月の仕事が40件を数える月もあるなど,引退前を上回る熱心さを発揮しての復帰だった。しかし,数を稼ぐ熱心さのせいで仕事が「粗く」なったのだろうか,92年1月,現行犯でお縄頂戴となったのだった。

 逮捕されたのは,ピーター・サレルノとドミニク・ラテラの2人,初老の盗賊コンビだった。80年代に足を洗い,堅気となるべく事業を興したが失敗,宝石泥棒で稼いだ金は,あらかた失ってしまっていた。そんなところに,サレルノの妻,グロリアが乳癌を診断され,妻の命を救う医療費を捻出するために,昔の稼業に戻ったのだった。「俺たちの稼業に健康保険などないから……」という情けない理由での「現役」復帰だったのである。

日本では考えられない高額保険料

 これが日本だったら,泥棒であろうとなかろうと,国民健康保険に加入する道があるのだが,「民」が主流となっている米国の医療保険制度では,泥棒に限らず,自営業者の保険加入は著しく困難となっている。例えば,日本の場合,国保の保険料には上限があるので,どんな大金持ちでも年間61万円までの負担で済むが,米国の民間保険に個人で加入した場合の保険料は,例えば,マサチューセッツ州のブルー・クロス/ブルー・シールド(BC/BS)社の場合,年間約160万円(家族用HMO,2005年)と,日本では考えられないような高額なものとなる。しかも,「応能負担」という発想がないので,どんなに貧乏であっても160万円を払わなければならないのだが,保険料が高くても加入できればまだいいほうで,既往疾患を理由に保険会社が加入を断ることを認めている州のほうが多いのである(例えば,子供がニキビで高価な抗生物質を使用したことが「既往疾患」に当たると,家族全体の保険加入を断られる例が続出,問題となっている)。

CEOには巨額ボーナス
顧客には・・・

 実は,私も,BC/BS社の保険に加入しているのだが,非営利の会社なので,比較的良心的に運営されていることで知られている。しかし,いくら非営利の企業とはいっても,市場原理が席巻する米保険業界の厳しい競争の中で生き残るためには,営利の保険会社と変わらない経営手法を採用せざるを得ないし,その結果収益が改善すれば,重役に巨額のボーナスを大盤振る舞いすることも営利の会社と変わらない。例えば,つい最近も,BC/BS社が,「収益改善に貢献した」と,CEOに220万ドル(約2億5000万円)のボーナスを支払っていたことが報道され,話題を呼んだばかりである。

 この報道の直後,私は,巨額のボーナスをCEOに払うほど財政が改善したはずのBC/BS社から,06年度の保険料改定についての通知状を受け取った。「貴殿の保険料を3割値上げする」という文面を見た途端,「この大泥棒の医療保険が!」と,叫んだのは言うまでもない。

この項つづく