医学界新聞

 

連載
臨床医学航海術

第1回 現代医療のパラダイム・シフト(1)

田中和豊(済生会福岡総合病院臨床教育部部長)


 臨床医学は大きな海に例えることができる。その海を航海することは至難の業である。吹きすさぶ嵐,荒れ狂う波,轟く雷……その航路は決して穏やかではない。そしてさらに現在この大海原には大きな変革が起こっている。この連載では,現在この大海原に起こっている変革を解説し,それに対して医学生や研修医はどのような準備をすれば,より安全に臨床医学の大海を航海できるのかを示したい。


はじめに

 現代の医療は大きな変革を迎えていると言われる。科学技術の急速な進歩,国際化やコンピュータなどのIT(情報技術)産業による高度情報化社会などによって,現代の医療は医学史上始まって以来の大きなそして急速な変革の波にさらされている。このような大きな変革の波を「パラダイム・シフト(paradigm shift)」と表現する人もいる。

 この「パラダイム(paradigm)」という用語は,1962年アメリカの科学史家Thomas S. Kuhnがその著書『科学革命の構造』のなかで新たに提出した概念であり,もともとラテン語などの語形変化の型を意味する文法用語であった。しかし,Kuhnはその著書の中で「パラダイム」を,「一般に認められた科学的業績で,一時期の間,専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」と定義した。そして,彼はその著書でそれまで累積的かつ連続的に発展すると考えられていた科学は,それまでに信じられていた通常科学がそれでは説明しきれない危機に直面した時「パラダイム」を非連続的に変換すること,すなわち,「パラダイム・シフト」によって進化することを示した。彼によると,コペルニクスの天動説,ニュートンの力学,ラボアジェの酸素燃焼論,アインシュタインの相対性理論などはすべてこの「パラダイム・シフト」の例である。これ以後この「パラダイム」という用語は,思想・経済などの社会科学の世界でも広く一般に用いられるようになった。

 このような「津波」とも言うべき変革の波が押し寄せていることは新聞やテレビなどのマスコミで大きく報道されていて,いまさら再確認するまでもない周知の事実である。ところが,「医学生」や「研修医」の中には,「医学部」という「温室」あるいは「進化から隔離された偏狭の地」に生息しているためか,驚いたことにこの「パラダイム・シフト」にまったく無知である人が未だに存在するようである・

 この連載では,このような奇特な方々のために現代医療に今まさに起こっている「パラダイム・シフト」について解説し,「医学生」として,あるいは「研修医」としてどのような準備をしておくべきかアドバイスしたいと思う。

基礎医学から臨床医学の時代へ

 まず現代医療のパラダイム・シフトの第1として,「基礎医学の時代から臨床医学の時代へ」移行していることが挙げられる。

 医学の歴史は人類の傷病との戦いである。この人類の傷病との戦いにおいて,正常な人体のメカニズムと傷病のメカニズムがわからなければ,根本的な傷病の治療は不可能であった。このため,医学の歴史を紐解けば理解できるように,現在までの医学の歴史は,正常な人体のメカニズムを理解すること,そして,傷病のメカニズムを理解することに大部分の労力が割かれてきた。1543年のヴェサリウスの『人体の構造に関する7つの本』に始まる解剖学,1628年のハーヴェイの『動物における心臓と血液の運動の解剖学』に始まる生理学などの正常な人体のメカニズムの理解から,その後の病理学や細菌学などの基礎医学の発展によって,多くの疾病のメカニズムが理解されるようになった。これらの基礎医学の発展によって,それまでは不治の病であった結核のような疾患も治療可能な疾患に変化したのである。

 この歴史の流れを振り返れば,医師の主な仕事が「治療」主体という臨床医学よりも「病因の解明」主体の基礎医学であったことがよくわかる。過去の臨床医学では病因が解明された疾患にのみ根治療法を行い,それ以外の疾患については対症療法を行うしかなかったのである。

 森鴎外の小説『カズイスチカ』に「一枚板」と表現された全身が硬直した破傷風の患者が出てくる。この小説の主人公の青年医師「花房」(おそらく森鴎外自身)はこの患者を受け持つことになるが,治療については「病人は恐ろしい大量のChloral(催眠剤。今日では殺虫剤)を飲んで平気でいて,とうとう全快してしまった」とある。当時は毒をもって毒を制すような現在では考えられない治療を行っていたことになる。この小説が書かれた当時の明治44年(1911年)の医療事情では,抗生物質もまだ発見されておらず臨床医学のレベルはこの程度のものであったのである。

 しかし,現在では多くの疾患の病因は解明されている。いまだにその病因が解明されていない疾患も確かに存在するが,コモン・ディジーズと呼ばれる疾患のほとんどが,その病因も解明され治療法もほぼ確立されている。2005年にノーベル医学・生理学賞を受賞したロビン・ウオーレンとバリー・マーシャルが「消化性潰瘍」の病因は「粘膜防御因子と攻撃因子の不均衡による虚血」ではなく「ピロリ菌による感染症」であるということを明らかにしたように,その病因が根本から覆された疾患もある。しかし,コモン・ディジーズは現在では病因を解明することよりもいかに有効に治療するかという治療に重点が置き換わっている。つまり,医療の重点が基礎医学から臨床医学に移行したのである。

 もちろん現在でも基礎医学の重要性は大きく,筆者はそれを否定するつもりはまったくない。ただ,現在は森鴎外の時代のように「基礎医学を修めればそれで,はいおしまい。臨床は片手間で」という時代ではないということを言いたいのである。現在では優れた臨床医になるためには,基礎医学(これだけでも森鴎外の時代より膨大になっている)を修めるだけでなく,さらに臨床医学という大海を航海しなければならないのである。したがって,現在の医学生や研修医は過去の医学生や研修医とは比較にならないほどの膨大な科学知識を多大な労力をかけて習得しなければならなくなっているのである。

医療のパラダイム・シフトの諸相
・基礎医学から臨床医学の時代へ
・疾患志向型から問題解決型の時代へ
・専門医から総合医の時代へ
・単純系から複雑系の時代へ
・確実性から不確実性の時代へ
・各国主義からGlobalizationの時代へ
・画一化からtailor-madeの時代へ
・医師中心から患者中心の時代へ
・教育者中心から学習者中心の時代へ

次回につづく

参考文献
1)トーマス・クーン著,中山茂訳:科学革命の構造(みすず書房)
2)小川鼎三:医学の歴史(中公新書)
3)森鴎外:カズイスチカ,山椒大夫・高瀬舟(新潮文庫)


田中和豊
1994年筑波大卒。横須賀米海軍病院インターン,聖路加国際病院外科系研修医,ニューヨーク市ベスイスラエル病院内科レジデント,聖路加国際病院救命救急センター,国立国際医療センター救急部を経て,2004年済生会福岡総合病院救急部,05年より現職。主著に『問題解決型救急初期診療』(医学書院刊)。