医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第74回

ピル(医療と性と政治)(6)
生殖学者

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2661号よりつづく

〈前回までのあらすじ:経口避妊薬を開発することができる学者と,サンガーが白羽の矢を立てたのがグレゴリー・ピンカスだった〉

 グレゴリー・ピンカスは,1903年,ユダヤ系ロシア移民の子として生まれた。ピンカス家の言い伝えによるとIQ210の神童であったとのことであるが,コーネル大学を卒業後,ハーバードで博士号を取得した時は,まだ24歳にしかすぎなかった。その後,ケンブリッジ大学,カイザー・ウィルヘルム研究所留学を経て,27歳でハーバード大学講師,28歳で同助教授に就任した。ユダヤ人に対する差別が厳しかった時代背景を考えれば,ピンカスの「天才」ぶりがどれだけ際立っていたかがわかるだろう。

マスコミの寵児から「ドクター・フランケンシュタイン」に

 遺伝学に興味を持ったのは,自身が色盲だったからと言われているが,遺伝学実験で動物交配を繰り返している間に,生殖学そのものが研究対象となった。34年,ピンカスは,ラビットで「試験管べイビー」を作製することに成功,マスコミの寵児となった。しかし,皮肉なことに,ピンカスにとって,メディアの注目を浴びたことが「不運」の始まりとなったのだった。

 もともと,試験管ベイビー作製の成功は,「(精子さえあれば)父親なしに子どもを持つことができる。科学の力で,アマゾネスのような女系社会を実現することが可能となる」などと,センセーショナルな形で報じられていた()。しかし,ある新聞が,「ラビットの実験をヒトに応用することは計画していない」というピンカスの発言を,「not」という単語を抜かしてしまう誤植のせいで,「ヒトへの応用を計画している」と誤報するに及んで,ピンカスには,「アメリカのドクター・フランケンシュタイン」というイメージがつきまとうようになってしまったのだった。

 元来保守的なハーバードの学風の中で,生命の尊厳にかかわるような「危険な」領域で精力的な研究を推し進める「性急さ」が批判されるとともに,ピンカスの「成功」に対する嫉妬も渦巻くようになった。38年,ハーバードは,ピンカスのテニュア(終身職)への昇進だけでなく助教授への再任も拒否,ピンカスは,ハーバードを退かなければならなくなってしまった。

ハーバードを去り非営利研究組織を設立

 「ドクター・フランケンシュタイン」の異名を持たされることになってしまったピンカスにとって,アカデミズムでの再就職先探しは容易ではなかった。ピンカスに救いの手を差し伸べたのは,友人のクラーク大学生物学部部長,ハドソン・ホーグランドだったが,ホーグランド自身,ハーバードの保守的学風には反感を抱いていたという。しかし,ホーグランドはピンカスに「ビジティング・プロフェッサー」の肩書きを与えることはできても,予算上の制約のために,給料を保証することはできなかった。ピンカスは,研究資金として得た篤志家からの寄付を自分の給料に当てなければければならなかったのだった。

 ピンカスの不安定な身分に対する解決策として,2人は「独立の民間研究所」を設立して,製薬会社から研究を請け負うことを思いついた。当時,性ホルモン開発に対する製薬会社の関心が高まっていたし,ピンカスは生殖学動物実験の領域では第一人者であっただけに,研究委託の需要があるに違いないと踏んだのである。

 かくして,44年,2人は,非営利の研究組織「ウースター実験生物学基金」を設立した。資金繰りが苦しい中,ピンカスは,研究所長のかたわら,「清掃夫」役も兼任しなければならなかった。幸い,製薬会社からの委託研究で研究所の運営は成り立ったが,財政的には綱渡りのやりくりが続いたのだった。

「ピル」誕生へ大きな一歩

 51年,ピンカスは,サンガーがニューヨークで主催したディナーにゲストとして出席した。当時,サンガーはすでに75歳になっていたが,前回も書いたように,経口避妊薬実現の可能性を探るようになっていた。このディナーの席で,サンガーは,「物理的に精子と卵子を遮断する方法ではなく,生理的な方法による避妊法を,あなたの研究所で早急に実現することは可能か」と,直截な質問をピンカスにぶつけたのだった。

 「早急というのはどれくらい急ぐのか?」と尋ね返したピンカスに対するサンガーの答えは,「2,3年のうちに」というものだった。「保証はできないができると思う」とピンカスが答えた瞬間,経口避妊薬「ピル」は,誕生に向けて大きな一歩を踏み出したのだった。

 53年6月8日,サンガーは,マコーミックを連れて,ピンカスの研究所を訪れた。ピンカスの案内で研究施設を「検分」した後,マコーミックは,経口避妊薬開発の研究資金として,当時としては「一財産」と言ってよい,4万ドルの小切手をピンカスに手渡した。その後,年余にわたってマコーミックはピンカスに小切手を渡し続けるが,その総額は200万ドルに上ったという。

この項つづく


註:オルダス・ハクスリーが,人間を試験管で製作する未来を描いた『素晴らしき新世界』を32年に発表したばかりだっただけに,ピンカスの研究は大きな反響を呼んだのだった。