医学界新聞

 

カスガ先生 答えない
悩み相談室

〔連載〕  7

春日武彦◎解答(都立墨東病院精神科部長)


前回2654号

Q 現在,精神科へ研修に来ています。交通事故で瀕死の重症を負い,一命はとりとめたものの脳挫傷の後遺症が残った若い男性患者と知り合いました。車椅子状態で,人格変化が起きてしまっており,すっかり幼稚化し,ときに奇声を挙げ興奮します。本人のみならず家族が惨めでした。闇雲な生命尊重主義みたいなものの犠牲者を見る思いで暗澹としてしまいました。不謹慎かもしれませんが,助からなかったほうが幸せだったのでは,と。(研修医・♂・26歳・ローテート中)

青磁に鯛焼き

A わたしも同じように感じることはありますし,家族がそのことを明言しながら溜め息をついたこともあります。事故そのものはともかくとして,あとは悪意も手落ちも存在しないのにこんな状況が出現してしまっているのですから,運命の(悪質な)悪戯としか言えないのかもしれません。

 ところで精神科では,ときに患者さんが妙に哲学的な,あるいは根源的な質問を医師へ投げかけてくることがあります。自分なりにきちんと答えないと治療関係がぎくしゃくしかねないことがあるので,そのようなことに頭をひねったりするのですが,そうした一環として「生きることの価値とは何か」について考えてみたことがあります。

 結論は案外とシンプルなものでした。物事には意味はひとつだけではなく(無意味というのもひとつの意味と考えます),いくつもの意味があるのだということに気づいたり実感していくプロセスだということです。

 具体的に言いましょう。癌の告知を受けた人が,ショックではあったものの病院からの帰り道に野性の花を目にして「ああこんなにきれいなものだったのか」としみじみ思った,とおっしゃっていたことがあります。癌となったことは辛いけれども,普段なら気にもかけない野性の花の美しさに感動できるようになったことは,おそらくかけがえのない体験のはずです。

 あるいは,友人が江戸時代に作られた青磁の皿に鯛焼きを載せて出してくれた。それを見たとき,江戸時代に鯛焼きはなかったはずだから,この皿と鯛焼きとの出会いは奇跡的なことなのかもしれないと思って不思議な充実感を覚えたことがありました。

 また,いつも態度が悪くて内心ろくでもない人間だと思っていた患者が,待合室で他の患者を親切に手伝ってあげている光景をたまたま目にして人物評価が変わった瞬間には,まぎれもなくある種の喜びが伴っていました。

 どれも「だからどうした?」といった話に過ぎないかもしれません。しかし物事には,そして人生にはさまざまな文脈があり,それに応じていろいろな意味が顕現してくるのを知る体験こそが,生を営むことで生まれる豊かさであり手応えだと思うのですね。

 そうなりますと,なるほど脳挫傷の後遺症で胸の痛む状態を呈している患者さんやそのご家族は,今現在においては救急の医師に「なんで無理やりに助けたりしたんだよ」と詰問したくなる状況にありましょう。が,それはたったひとつの「意味」でしかない。今後,その患者さんの存在は,患者さん自身にも,そして家族に対してももっと別な意味あいをいろいろと帯びてくる可能性があるのです。年月を重ね,苦労を共有していくことは決して楽ではないだろうけれども,そこから豊穣なものを見出す可能性はあるに違いない。現状と和解する余地はあるに違いない。

 抽象的な言い方に聞こえるかもしれませんが,妙に理屈っぽい悲観論と,わたしが言うところの「生きることの価値」との中間におそらく現実があるのでしょう。そのように考えることで,ニヒリズムから抜け出すことも可能かもしれません。

次回につづく


春日武彦
1951年京都生まれ。日医大卒。産婦人科勤務の後,精神科医となり,精神保健福祉センター,都立松沢病院などを経て現職。『援助者必携 はじめての精神科』『病んだ家族,散乱した室内』(ともに医学書院)など著書多数。

▽「悩みごと」募集中

 春日先生にあなたの悩みを相談してみませんか? 悩みごとを200文字程度にまとめ,氏名,年齢,職種,ご連絡先,お名前掲載の可否(匿名,仮名,実名などご指定ください)を明記の上,編集室宛にお送りください。掲載分には掲載紙と粗品を謹呈いたします。
 お送り先は投稿案内のページをご覧ください。