医学界新聞

 

〔連載〕
感染症Up-to-date
ジュネーブの窓から

第2回 ポリオが隙を突いてやってくる

砂川富正(国立感染症研究所感染症情報センター)


前回よりつづく

 インドネシアではポリオNID(全国一斉予防接種日)が本年8月と9月の2回にわたって行われた。本稿は7月時点においてNID準備支援として筆者が現地で活動した際の記録である。その後筆者は,9月に再度,2回目のNID支援目的でインドネシアを訪問し,ジャワ島西部に位置するBanten州のワクチン拒否地域で活動した。その状況はいずれ機会があればお伝えしたい。


 インドネシアでの目覚めはむっとする空気に包まれて…と言いたいところだが実は寒い。旅行者にとって厄介な存在である蚊の活動を弱めるために,ホテルでは冷房が冬のように効いているのである(インドネシアでは蚊によって媒介されるデング熱が発生している)。私のこの国でのポリオ対策支援も,この強烈な冷房の洗礼と蚊取りマットの準備から始まった。

 2005年4月より報告が始まったインドネシアのポリオは首都ジャカルタのあるジャワ島西部を中心にスマトラ島を含めて拡大する傾向こそあっても,日々の情報からは減衰している様子がなかなか見えない(注:10月17日現在,死亡を含む269人の野生ポリオウイルス感染例が報告されている)。先日,インドネシア政府により8月と9月末にNational Immunization Day(NID:全国一斉予防接種日)が予定されたとの発表があった。その実施までに2か月を切る状況となってしまった今,地域レベルの準備状況を視察し,かつテクニカルな面について現場の問題点を議論するのが私に与えられた任務であった。初めて訪れるインドネシアの,どちらかと言うと遠隔地を巡回することになった私の脳裏に,WHOの短編映画で一度見たことのある,ポリオに罹った子どもが学校の廊下を懸命に這って進む姿が浮かんだ。

スマトラ島で見たもの

 概して対策の進捗状況は遅々たるものであった。決定から実施まであまりに急で準備する時間がない,年度半ばの突然の事業の通達に充てる費用がない,等の状況がほぼすべての地域で問題点として述べられた。しかしながら,各地域の担当者は不思議な自信に満ちていた。それは1995年から2002年に至るまでに数次にわたって実施されたNIDの成功の記憶であり,助け合いの風土を持つ,この国の精神文化に拠るものであろう。

 筆者が派遣された地域の1つであるスマトラ島の状況は,7月初旬においては,南部のLampung州におけるポリオの集団感染という状況を呈していた。同州の,ある山間地域(村)において4名が有症のポリオ確定患者として報告され,驚くべきことは200人に1人程度の有症者を出す程度と言われているこのポリオ患者同士はお互いに友人であったり,隣近所であったりした。どういうことだろう。感染は予想以上に拡大し,目にした結果はその一部を見ているのだろう。またこの集落を形成するジャワ島西部から移動してきたある移動労働者の集団(Immigration workers)は,グループとしてポリオを含む,多くのワクチンをことごとく受けていないこともわかってきた。政府発表の,ややひいき目に見た方がよいことが多いワクチン接種状況のデータでさえ,それらの多くの地域において接種率が80%に満たないことを如実に示した。未接種者が集中している地域に固まってポリオが発生している――。情報収集を進めていくにしたがって,1つの考えが頭の中を支配した。2005年,イエメンやアンゴラ,そしてインドネシアと,ポリオはいくつかの,それまで10年以上も患者発生がなかった国々において報告されているが,ウイルス自体はもっと多くの国々に「輸出」されているかもしれない,しかしウイルスが「隙のある集団と遭遇した状況下においてポリオの患者発生が起こっているのではないか」,という実感である。同じ接種率80%でも,ある人口の中に20%が散在している状況と,その20%が集団を成している状況は感染症に対する免疫力という点で明らかに異なる。そして愕然とした。近隣の国々,日本を含むWPRO(西太平洋地域)領域においては,接種率が地域によってはかなり低いところがあるとの情報を聞いたからである。

ポリオウイルスの 次のターゲット

 ポリオの感染力の強さは,他の腸管ウイルス感染症であるノロウイルスやエンテロウイルスが,いかに急激にコミュニティーや病棟において拡大するかを考えても想像がつくだろう。その強い感染力を保ちながら,集団において麻痺患者を発生させた場合,社会機能に及ぼす影響の大きさは計り知れない…実際の集団発生の現場において筆者が実感したことである。――そしてワクチンが非常に有効なことも。ゆえに人類はこの疾患の根絶を目標とし,多大な労力と資金をかけ,対策を行ってきたのだ。インドネシアでの今夏のNIDは実に,同国における2400万人の全5歳以下小児を対象とした壮大な事業である。資金調達に関して,各国際機関,近隣各国等が支援の手を差し伸べつつあるが,大量に人が移動する現代において,この感染力の強いウイルス感染症が狙う次なるターゲットがわが国でないと誰に予言できるであろう。わが国においてこの病気が再び侵入してきた時に,感染拡大を食い止められるだけの集団としての十分な免疫力があるか,また対策としてのNIDなどを国としてとり得るかどうかは懸念される点である。感染症は,特にポリオは地域や国における防御の隙を突いてくる。事なかれ主義で対峙できるほど甘くはない。既知の感染症との壮大な戦いが,今近隣のアジア地域で行われていることに,日本の医療・公衆衛生関係者も自らに関係することとして関心を寄せていただきたい,と心より願うものである。

つづく