医学界新聞

 

〔新連載〕
感染症Up-to-date
ジュネーブの窓から

第1回 マールブルグ出血熱は対岸の火か?

砂川富正(国立感染症研究所感染症情報センター)


 21世紀に入り顕在化したSARS(重症急性呼吸器感染症)や鳥インフルエンザの問題は,日本以外で発生した感染症であっても直ちに身近な脅威となり得るということを一般国民に強烈に認識させることとなった。加えて院内感染の発生,ワクチンに関する議論などは,古くて新しい感染症の問題として日常の話題から途切れることがない。これらの情報伝達の迅速化や相互化に関わるものとしてインターネットの普及があり,感染症に対応する方法として情報の共有が重要なキーワードとなったことが認識されつつある。

 筆者は,現在国際機関において感染症情報を監視し,対策を支援する業務に従事している。2年ほど前に本紙で「感染症新時代を追う」と題する連載をしたが,本連載においては,日本を離れて見えてくる国内外の感染症について,特に直近に問題となった感染症の話題や背景を,臨床医や公衆衛生担当者にわかりやすく解説することを狙いとしたい。


はじめに
-アフリカにおける感染症

 ジュネーブという場所で感染症情報を取り扱っていると,アフリカ大陸が目に付いてならない。アフリカは地図上ではヨーロッパからは目と鼻の先だ。そして感染症という観点から,アフリカ大陸の近さはさらに2つの点で実感できる。1つは,日本で漠然と想像していた状況をはるかに超えて,時には短期間に数百人の死亡という悲惨な感染症発生の一報に接する場合がある。情報の厳しさは,コンピュータのキーボードを打つ手を止めるほどだ……。2点目は,そのような「感染症の巣窟」としてのアフリカの状況に対して,WHO(世界保健機関)は,特に多くの関心とエネルギーを注いでいるという実感である。その理由の一部は,かつての植民地を多く抱える欧米諸国からの特別な関心の反映かもしれない。そのような中,アフリカの一国であるアンゴラで発生し,そして2005年8月末現在でほぼ終息しつつある,マールブルグ出血熱のアウトブレイクが,特に遠く離れた日本の感染症対策にどのような意味を持っているのか,状況の概観とともに考えてみたい。

アウトブレイクの実相

 アンゴラで発生しているウイルス性出血熱の原因がマールブルグ出血熱であると確認されたのは2005年3月のことであった。WHO情報(http://www.who.int/csr/don/archive/
disease/marburg_virus_disease/en/
)からは,前年10月頃から疑わしい症状の患者発生があったことが予想されている。WHOの積極的な介入も効を奏したのか,新規患者の報告状況は3-4月頃をピークとして急激に低下した。5月にいったんの増加が見られた以降は,7-8月上旬の散発的な患者発生を経て現在に至っている。2005年8月23日までに,公式に374名の患者数(死亡者329名:致死率88%)が記録された。これらの患者は当初,アンゴラ北西部のUige州に集中して発生し,その後Uige州以外の,アクセスが困難な周辺地域で散発例が続いたのであった。

 マールブルグ出血熱の歴史的な経緯については,1967年8月西ドイツのマールブルグ(Marburg)やその他の都市において,ポリオワクチン製造および実験用としてウガンダから輸入されたアフリカミドリザルの解剖を行ったり,腎や血液に接触した研究職員,および片づけを行った人など計25名に発生し,7名が死亡したことが知られている(国立感染症情報センターホームページより)。マールブルグ出血熱の発生にサルの関与が明らかなのはこの1967年の事例のみであり,以後のアフリカでの発生ではサルとの接触はまったく知られていない。エボラ出血熱同様に自然界の宿主は不明であり,どのような経路で最初のヒトへ病原体が伝播するかについても不明である。今回の事例については,WHO内部での会議で実際に現場対応をした人々の話からは,アウトブレイクは当初,金鉱労働者の中で始まり,その後,病院に持ち込まれたようである。爆発的に感染者が増加した頃の患者の大半は1歳以下の乳児であった。これらの多くは院内感染であった可能性が高い。

 現場対応チームからの報告では,以下の3つの取り扱いを適切に行うことが防疫上のキーワードとしてあげられている。すなわち,(1)患者,(2)葬式(“死体”の取り扱い),(3)注射器,である。患者はウイルスを含む血液が混入した吐物を嘔吐し,同様に下痢便を排泄し,また,死亡直後の死体に付着する患者体液にも感染の危険があった。しかしながら,これらは言い換えれば,「患者の体液はすべて感染の危険があるものとして取り扱うこと」という標準予防策に加えて,接触感染予防策を適切に行い得るか,というところに対策のポイントが凝縮されていることが伺えるであろう。さらに現地では,患者との接触者に関して21日間の追跡調査(Contact tracing)が有効に行われた。「院内感染対策の徹底」と「正確な接触者調査の実施」というキーワードを聞くにつけ,かつてのSARSにおける対応とマールブルグ出血熱のそれとは,ヒト-ヒト感染を起こす感染症の対策として基本的に同じであることがわかる。マールブルグ出血熱患者が国内で発生した場合には,例によって大騒ぎになることが予想されるが,ヒト-ヒト感染症対応の基本に立ち戻って対策を進めていけばよいのだ。日本国内において一類感染症として位置付けられるこれらのウイルス性出血熱を必要以上に恐れることなく,また,的確な対応を取るためには,2003年に培われたSARSの教訓を医療機関,公衆衛生機関ともに今一度振り返ってみることが肝要である。

おわりに
-対応の課題を含んで

 週によっては30-40例もの新規患者が発生していた春先は,日本を含む世界の報道機関がこぞってアンゴラのマールブルグ出血熱を取り上げた。嵐が過ぎると人々の関心はすぐに影を潜めるが,マールブルグ後も,アフリカではエボラ出血熱やラッサ熱を疑わせる患者の報告は絶えることはない。人の動きがグローバル化された21世紀において,重症感染症発生に関する懸念は火薬庫の前でくすぶり続ける小さな火のように,われわれ公衆衛生関係者の心から消えることはない。

 WHOが国際機関の総力を集めてこのような危険な感染症の問題に対応する場合において常に課題となるのが,十分な戦略の確保,政治的な圧力の調整,専門家の支援(検査部門,疫学,サーベイランス),メディアを含めたコミュニケーションの確保,そして最も重要な点が各国機関および専門家等をどのように調整して現場でスムーズに問題に対応させるかというコーディネーション能力の確保である。日本では一類感染症等予防・診断・治療研修事業などの臨床のトレーニングが厚生労働省によって行われているが,国全体としての包括的なコーディネーション能力の確保にも力を注ぐことが今後必要であろう。

つづく


砂川富正氏
1991年琉球大学卒。在沖縄米国海軍病院インターンを経て,1993年より大阪大学医学部小児科入局,臨床研修。同大学院にてウイルス学を学ぶ(1998年修了)。箕面市立病院勤務を経て,1999-2001年,国立感染症研究所実地疫学専門家養成コース(FETP)1期に参加。横浜検疫所検疫課勤務の後,2002年11月より国立感染症研究所感染症情報センターに主任研究官として採用。香港におけるSARS,京都府における鳥インフルエンザ等のアウトブレイク,感染症の調査・対応に当たる。2004年8月より短期契約の医師としてWHO感染症サーベイランス・対応部勤務。翌2005年6月より2年間の長期契約となり現在に至る。