医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第 67回

ケイティ・ワーニッキー事件(4)
「勝者」のいない結末

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2646号よりつづく

〈前回までのあらすじ:2003年8月にはユタ州で,そして05年6月にはテキサス州で,子供に癌治療を受けさせることを拒否した親が,わが子を「誘拐」する事件が起こった。〉

世論の指示を得た ジェンセン家の主張

 ジェンセン家の「わが子誘拐」を支持する人々の合い言葉となった「My child, my choice」というフレーズが,中絶容認派の女性たちのスローガンとして有名になった「My body, my choice」という言葉の焼き直しであることは言うまでもない。しかし,「My body, my choice」という言葉が,中絶容認に限らず,患者の自己決定権を表す普遍的意味合いがある()のに対し,「My child, my choice」という言葉は,「親だけが子供が受けるべき医療について決定を下す権利がある」ことを意味するもので,子供の利益を尊重する「beneficence優先」の立場からは,容認しがたい主張であったと言わなければならない。

 しかし,「州などの公権力が,本来,家庭内で決められるべきことがらに口をさしはさむべきではないし,口をさしはさんだうえに子供の養育権を取り上げるなど論外」というジェンセン家の主張は,そのわかりやすさもあって,世論の支持を得ることに成功した。

世論の指弾を浴びた 児童家庭局

 一方,ジェンセン家に対する支持が広がったのとは対照的に,「患児の最善の利益を優先」することを目的に動いたにすぎないユタ州児童家庭局は,「権力を濫用して家族を離散させる『悪逆』な存在」と,世論の指弾を浴びる羽目に陥った。そのうえ,世論の動向に敏感な政治家たちがジェンセン家に対する同情と支持を表明するに至り,児童家庭局の立場は一層悪化した。中でも,ユタ州知事のマイク・リービット(現保健省長官)が当初からジェンセン家に同情的な姿勢を示したことの意味は大きく,児童家庭局は,パーカーの身柄保護に踏み切ることができなかったのだった。

 知事の強い意向のもと,児童家庭局とジェンセン家の間で再度の交渉が行われた。誘拐の逮捕状が請求されてから3週が経過した9月5日,「ジェンセン家が選ぶ小児腫瘍専門医の診察後,その指示に従う」との合意が成立,逮捕状の効力も停止された。

パーカーの両親を 判事が厳しく叱責

 新たな合意締結で,パーカーの「誘拐」事件は一件落着したかに見えたが,合意が成立した3週後,パーカーの両親は,「主治医が予断に基づいた治療法を勧めている」と化学療法を拒否,またも一方的に合意を反古にしてしまった。化学療法など必要ないという両親の主張を裏付けるかのように,パーカーも「僕は癌なんかじゃない。化学療法なんか必要ない」とテレビカメラの前で宣言した。

 パーカーの両親は,法廷の仲介下に締結した合意を一方的に反古にする「無法」を再三繰り返したが,世論とメディアを味方につけていたことがその強気の背景にあったのだった。一方,児童保護局は,行政の最高責任者である知事までもが両親に同情的とあって,パーカーの身柄を親から引き離してでも化学療法を実施するという,当初の方針を撤回せざるを得ない立場に追い込まれてしまった。

 誘拐事件が発生してから2か月後の10月24日,児童家庭局は,「パーカーが免許を持つ医師の診療を受ける」ことを条件に児童虐待の告発を撤回した。担当判事は告発の撤回を承認したが,再三にわたり法廷での取り決めを無視したパーカーの両親を,次のような言葉で,厳しく叱責した。

 「あなた方はお子さんの命を危険にさらしていることがおわかりになっていません。もしパーカーが死ぬようなことになったら,あなた方は自分たち以外に責める人間はいないのですよ。・・・あなた方の主張が通ったからといって,決して,『勝った』とは思わないでください。このケースに勝者はいないのですから。もしいるとすれば,いつか癌が再発して負けるかもしれない『敗者』だけなのです」

ケイティへの冷酷な知らせ

 パーカー・ジェンセンの誘拐事件が発生してから2年近くが経過した05年5月,ユタ州は,「親・保護者による医療上の決定法」を発効させた。子供が受けるべき医療について親・保護者が下した決定は,「明瞭かつ説得力のある理由でそうと証明されない限り児童虐待に問われない」という内容の法律であったが,「パーカー・ジェンセン法」という通称が示すとおり,パーカーの誘拐事件がきっかけとなって成立した法律だった。

 本シリーズの冒頭で紹介したホジキン病患者ケイティ・ワーニッキー(12歳)の「誘拐」事件がテキサス州で発生したのは,「パーカー・ジェンセン法」が発効してひと月後の05年6月のことだった。ケイティの誘拐事件発生から1週が経った6月10日,ホジキン病治療の方針を巡って法廷のヒアリングが開かれた。親もケイティ本人も「癌は消えた」と確信していたからこそ,医師が勧める放射線治療を拒否,「誘拐」事件へと発展したのだが,身柄を保護された後にケイティを診察した医師は,ヒアリングで「ホジキン病は消えていないどころか再発している。すぐに化学療法を再開しないといけない」と,衝撃的な事実を告げたのだった。13歳の誕生日を翌日に控えたケイティにとって,これ以上はない冷酷な知らせだったが,パーカーの事件と同様,ケイティの誘拐事件も,誰も「勝者」がいない結末を迎えたのだった。

この項おわり


註:例えば,『ジュニア』(1994年)というコメディ映画の中で,アーノルド・シュワルツェネッガー演じる主人公が男であるにもかかわらず妊娠,「妊娠の継続は危険」と中絶を勧められた際,「My body, my choice」と叫ぶことで,決然と産む意思を表明した。中絶の容認を象徴する言葉「My body, my choice」を,中絶を拒否する言葉として使うことでギャグとしたのだが,「自己決定権」が本意の言葉であるからこそ本来使われるべき状況とは正反対の状況で使うことが可能だったのである。