医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第 65回

ケイティ・ワーニッキー事件(2)
小児におけるインフォームド・コンセント

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2642号よりつづく

〈前回のあらすじ:ホジキン病の少女(12歳)に必要な治療を受けさせることを親が拒否していると,テキサス州は,少女の身柄を保護したうえで治療を受けさせることを決めた〉

成人と異なる小児の 「自己決定」のルール

 前回も書いたように,ケイティ・ワーニッキーが「誘拐」された事件の背景には,小児が受けるべき治療について両親が決定する「権利」に対し,州など第三者が介入することができるかということが問題となった。

 周知のように,「インフォームド・コンセント」の根幹にある原則は,自分の体について自分で決める,患者の「自己決定権」(autonomy)を尊重することにある。しかし,「自己決定権を尊重する」と言うのはやさしいが,インフォームド・コンセントが成り立つためには,「患者に自己決定を下す能力(competence)が存在する」ことが大前提となる。この前提が成り立たない状況では,インフォームド・コンセントをどのように成立させるか,種々の配慮と工夫が必要となるのである。

 たとえば,昏睡に陥り意思表明ができない患者に自己決定能が存在しないことは明瞭であるし,痴呆・精神疾患などで病状についての理解力・判断力に問題があると推定される患者についても,患者が自己決定を下すことの適切性には疑義がさしはさまれる。同様に,小児についても,一般には,「理解力も判断力も未熟」とされ,患児が単独で「自己決定」することは受け入れられていない。小児におけるインフォームド・コンセントのルールは,「Competentな成人」に対するルールとは自ずと異なったものとならざるを得ないのである。

小児特有の 「開かれた未来に対する権利」

 大人の場合のルールでは,「自己決定権(autonomy)」が「患者の利益追求(beneficence)」よりも優先されるのが原則なので,たとえば,「エホバの証人」の信者が死ぬと承知で輸血を拒否する場合のように,患者本人が「不利益」とわかった選択を下したとしても,医療者はその選択を尊重するのが決まりである。今回のケイティの「誘拐」事件にしても,かりに,ケイティが12歳でなく30歳の「分別の備わった大人」であったならば,「放射線治療を受けなければ死ぬ確率が高くなるのはわかっています。でも,副作用を考えると,放射線治療を受ける気にはなれません」という決定は尊重されたに違いないし,何も問題にはならなかったはずである()。

 しかし,小児の場合は,たとえば,患者がどんなに「注射はイヤだ」と泣き叫ぼうが,その利益を考えて,治療を実施するのが普通である。単純化しすぎることを恐れずにいえば,小児の場合は,「autonomy」よりも,「beneficence」が優先されるのであるが,なぜ,大人と小児とで,インフォームド・コンセントのルールがこんなにも違うかというと,小児には大人にはない特別の「権利」があるからである。

 小児特有のこの権利は「開かれた未来(open future)に対する権利」と呼ばれるが,小児には,「これからの人生」を形成していく権利があるからこそ,「今のautonomy」が制限されるのである。ケイティの場合も,今,未成年であるケイティに「治療がイヤだ」と言える権利が認められていないのは,ここで治療を受けて生き延びてもらって,大人になった後に「治療の是非」を自分で決める権利が行使できるようになることをめざすからである。言い換えると,ケイティが晴れて大人になった暁に「治療がイヤ」と言う権利を行使できるよう,今のケイティの「autonomy」を制限するのである(大人の場合に「治療はイヤ。死んでもいい」という「autonomy」が尊重されるのは,大人には「開かれた未来」に対する権利が認められていないから,という言い方もできるだろう)。

医療者に課せられた 患児の利益追求

 小児のインフォームド・コンセントにおいては,「autonomy」よりも「beneficence」が優先されると書いたが,では,誰が患児の「利益」を判断するかというと,通常は,親などの保護者が,「『代理人』として患児の最善の利益を追求する」という前提のもとに,医療上の決定を下すことが原則とされている。しかし,親が決めることが原則とは言っても,「親にすべてを決める権利がある」というわけではなく,親が子供の利益を損ない,「開かれた未来」を奪うような決定を下すようなことまでは親の「権利」とは認められていないのである。

 しかも,きわめて不幸なことに,世の中に子供を虐待する親がいることは否定し得ない事実であるし,きわめて稀とはいえ,保険金目当てに自分の子供を殺めたりする「非道な」親が存在することもまた事実である。医療上の判断についても,親だからといって,自動的に子供の最善の利益を追求するとは,保証の限りでないのである(換言すると,小児のbeneficenceを追求する義務を果たさない親もいるのである)。

 親が子供の命を危険にさらすような事態が危惧される以上,誰かが子供の命を守る役割を果たさなければならず,米国では,たとえば,各州の児童保護局など,「子供を守る」役割を担う公的機関が設けられている。それだけでなく,医療者には,「親が子供の命を危険にさらしている」と疑われる症例については,州に報告することが義務づけられているのが普通である。小児については,患者のbeneficenceを追求する義務が,大人の場合よりも重く医療者に課せられているのである。

この項つづく