医学界新聞

 

超高齢化社会――老年学の課題が議論に

第24回日本老年学会,関連分科会開催


 さる6月15-17日,日本老年学会および関連分科会が,折茂肇会長(健康科学大学長)のもと,東京国際フォーラム(千代田区)で開催された。「老年学の確立を目指して」を共通テーマとして掲げた今回は,学会として初めての,死をめぐる問題を扱ったシンポジウムや,養老孟司氏(人と動物のかかわり研究会理事長)の特別講演などにおいて,超高齢化社会に求められる老年学のあり方がラディカルに議論された。また,「痴呆」から「認知症」への呼称変更に関しても日本老年精神医学会の総会で正式に決定した。


■「痴呆」から「認知症」へ

用語委員会が報告

 「痴呆」あらため「認知症」へ――6月16日に行われた第20回日本老年精神医学会総会において,「痴呆」の名称を「認知症」と変更することが正式に決定した。学会の用語委員会委員長である朝田隆氏(筑波大)は,昨年からの「痴呆」名称議論の経緯を表のように紹介したうえで,名称変更の詳細を説明した。

 「痴呆」の名称変更に関する経緯
2004年3月高齢者痴呆介護研究・研修大府センター(現認知症介護研究・研修大府センター)長・柴山漠人氏からの問題提起。
4月高久史麿氏を座長に検討会が設置される。
9-10月厚労省が意見募集。約半数の国民が「痴呆」に不快感を持っていることが判明。新呼称では「認知障害」「認知症」が上位に。
12月第4回検討会で,全会一致で「認知症」に決定。

 名称変更の必要性については,老年精神医学会が独自に行った事前のアンケート調査では8-9割の会員が「変更の必要なし」と回答していた。しかし,用語検討委員会は国民が不快感を感じているという調査結果を重視。最終的に「認知症」へと名称を変更することが決定した。また,学術用語としての「痴呆」については,私的レベルでは容認するものの,学会公式の場では使用しないことが正式に決定した。

 今後は,学会誌『Psychogeriatrics』のニュースレター,『老年精神医学雑誌』,学会ホームページで周知徹底したうえで,2006年開催の第21回老年精神医学会総会で「確定事項」となる。

認知症患者をどう支えるか

 パネルディスカッション「認知症(痴呆)――診療・介護の新しいシステムの構築をめざして」では,いかにして現在の医療技術,リソースをもって認知症に対するかが議論された。

 田平武氏(国立長寿医療センター)は,認知症に対する薬物療法の現状を紹介。認知症には大きく分けてアルツハイマー病によるものと,血管性のものがあるが,田平氏はアルツハイマー病に対するワクチン治療の現状をレビュー。Aβワクチンの臨床試験結果などを紹介したが,アルツハイマー病のワクチン治療は,現状では劇的な効果を示すには至っていないと解説した。

 黒川由紀子氏(慶成会老年学研究所)は臨床心理の立場から認知症に対する回想法の活用を解説。2つの事例をあげて回想法の実際を紹介したうえで,回想法は「患者の過去,現在,未来をつなぎ,最後まで尊厳を守ることに貢献する」が,他のさまざまなアプローチと統合的に用いることで意味が増すものであることを強調した。

 稲庭千弥子氏(今村病院)は,老人性痴呆疾患専門病院における認知症診療について紹介。「認知症の治療は,精神面だけを診ていてはできない」と述べ,身体,精神,環境面すべてを盛り込んだクリティカルパスを作り,それを多職種参加型のチームアプローチで運営する今村病院および関連施設の実践を解説した。

認知症とともに生きる

 一方,不可逆性の病態を持つ認知症では,病とともに生活することが重要な課題となる。安原耕一郎氏(沼南医院)は,近年注目を集めるグループホームの現状について報告。2005年には事業所数が6500以上,入居者数は推定9万人を超えるグループホームが抱える問題点として,医療機関との連携,ターミナルケアの不備,人材教育の整備などをあげた。

 「呆け老人をかかえる家族の会」の副代表も務める杉山孝博氏(川崎幸クリニック)は,自身の経験談も交えながら,認知症高齢者の在宅ケアの課題を「医療者が認知症をどう理解し,それをいかに家族に伝えるか」「1人暮らしの認知症患者」「ターミナルケア」の3つに整理し,解説した。

 杉山氏が指摘した1人暮らしの認知症患者の問題は,最後に発表した大島一博氏(厚労省)も強調。高齢者人口がピークとなる2015-2025年には認知症患者数が250万人,高齢者の一人暮らしが570万人となる見通しを述べ,地域で認知症高齢者を支える「認知症を知り,地域をつくる10カ年」の構想を紹介した。

「高齢化社会」とは?

 特別講演「超高齢化社会をどのように捉えるか」に登壇した養老氏は,「社会」「世間」「個人」という3つの視点から日本における高齢化社会の問題を論じた。

 日本語には,自身を含めたウチを意味する「世間」と,ソトから客観的に捉えた「社会」という2つの世界を捉える言葉がある。養老氏は「超高齢化社会」という言葉そのものが,「老い」を自分たちのウチである「世間」から排除しようとする意識の現われではないかと論じた。

 「地域単位にみれば,過疎地などでは数十年前からすでに超高齢化社会に突入していた。今,高齢化を問題視するのは都会人の視点です」と述べ,「老いることは生き物にとって自然なこと。しかし,都市はそうした“自然”を排除していくものであり,高齢化が“社会問題”とされるのは,私たちの社会が急速な都市化をとげた結果ではないか」として,高齢化社会を問題視する意識構造を分析した。

 一方,ウチなる「世間」の視点から高齢化社会を捉えた場合は,安楽死や尊厳死の問題と同様に,「国・社会を超えた一般解は存在しない」と述べ,脳死・臓器移植が問題となるが人工妊娠中絶をほとんど問題にしない日本と,人工妊娠中絶に強い拒絶を示すが,脳死・臓器移植をほとんど問題にしない米国との文化的差異を紹介。高齢化の問題も文化によって,大きく違った様相を見せるだろうと述べた。

 最後に,個人としての高齢化社会を論じた養老氏は,「変わらない私」「他の人と違う私」といった近代的自我を強固にもった個人が高齢化を迎えることに懸念を示し,「変わらない」概念世界と,うつろいゆく「感覚世界」の間を行き来するような世界観を持ってほしいと述べた。