医学界新聞

 

看護のアジェンダ
 看護・医療界の“いま”を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第5回〉
健康は平和の道具

井部俊子
聖路加看護大学学長


前回よりつづく

 その夜,親しい友人に次のような携帯メールを送った。「今夜,憲法の14条と24条の草案を作ったという81歳の女性の講演を聞きました。人間の気品を感じました」

 「なんという女性ですか?」

 「ベアテ・シロタ・ゴードンです。当時GHQの民生局員だったそうです」

 「知りませんでした。女性が参加していたことが素敵です」と彼は返信してくれた。そして,私は軽い興奮を覚えながら床についた。

憲法草案を作った唯一の女性

 その夜,800名を収容する東京弁護士会館は満席であった。体調があまりよくないという司会者のアナウンスにもかかわらず,ベアテ・シロタ・ゴードンさんは笑みをうかべ,ゆっくりと壇上にあがった。シルバーホワイトの髪は束ねられ,口紅が映えていた。ほわっとした白いブラウスの上に,藍染のようなベストを羽織り,手には布製の巾着を下げていた。

 6か国語が堪能というベアテさんは,講演原稿を手に壇上の中央に腰かけ,流暢な日本語で話し始めた。

 「私は法律はシロトですが,名前はシロタです」と会場をわかせた。

 ベアテさんは1929年,ピアニストの父レオ・シロタさんが山田耕作の招きで日本に赴任すると同時に家族で来日し,5歳から15歳まで日本で過ごした。15歳から,カリフォルニア州のミルズカレッジで学び,卒業後タイム社に勤めた。当時すでにミルズカレッジは学長が女性であった。女性も教育を受け社会に還元しなければならないと教わったが,タイム社では女性は記事を書けず,男性記者のためにリサーチをしていたという。

 戦争中は日本に入国できなかったため,両親に会いたいと考えたベアテさんは,1945年12月GHQ民生局のスタッフとして来日した。JOAK放送で,レオ・シロタの名前をきいたベアテさんは,両親が住んでいた軽井沢に向かい,「やせてしわがふえたパパと,食料難でぶくぶくしたママと再会することができたのです」と語った。

世界平和への看護の貢献

 「当時,日本の女性は家庭の中では少し力を持っていました。夫の給料を受け取り,子どもの教育を決めていました。しかし,社会的権利を持っていませんでした」とベアテさんはよく通る声をはりあげた。

 ケーディス大佐がふり分けた憲法草案作りチームの中で,人権条項は男性2人,女性1人(ベアテさん)が担当することとなった。ベアテさんは22歳であった(今の22歳と昔の22歳は大きく異なると彼女は強調した)。いろいろな図書館を訪ね,多くの権利を“リサーチ”したのち,ベアテさんは次のような草案を作った。(抜粋)

 「すべての人間は法の下に平等である。人権,信条,性,門地,国籍による,政治的,経済的,教育的,社会的関係における差別はいかなるものも認めず,許容しない(略)」

 「家庭は,人類社会の基礎であり,その伝統は善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故,婚姻と家庭とは法の保護を受ける。婚姻と家庭とは,両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然である。このような考えに基礎をおき,親の強制ではなく相互の合意に基づき,かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める(略)」

 「妊婦と幼児を持つ母親は国から保護される。必要な場合は,既婚未婚を問わず,国から援助が受けられる。非嫡出子は法的に差別を受けず,法的に認められた嫡出子同様に身体的,知的,社会的に成長することに於いて権利を持つ」

 ベアテさんは,世界の叡知が日本の憲法を作ったのであり,「押しつけられた」という解釈は正しくないこと,日本の女性の進歩は著しく,平和運動は女性の義務であるとしめくくった。

 会場からは,われんばかりの拍手がしばらく鳴り止まなかった。

 看護は,人々の健康を道具として世界の平和に貢献することができる,と私は確信した。