医学界新聞

 

〔投稿〕

医学生が見た
インドネシア津波災害医療支援活動

山道 拓(大阪大学医学部6年)


2004年12月26日

 12月26日,私はインドネシアとマレーシアからの友人を連れて国際医療ボランティア団体,特定非営利活動法人アムダ(AMDA=The Association of Medical Doctors of Asia)岡山本部の菅波茂代表を訪ねていた。インドネシアからの友人は,アジア医学生連絡協議会(AMSA=Asian Medical Students' Association)という医療系学生団体を通じて得た仲間のNanaだ。AMDAは学生団体であるAMSAを前身とする多国籍NGOであるが,独立した両団体が協同一致して活動を行うことについて協議した。大阪への帰路の新幹線の中で,「インドネシアのスマトラ沖で地震,死者8名」の車内テロップが流れた。「そういえば昨年のイランでの地震も年末だったね」Nanaと私はそんな話をしていた。

第18回東アジア医学生会議in大阪

 AMSAは,1979年暮れのカンボジア難民大量発生を機に現地に向かった菅波茂医師(現AMDA代表)と2名の医学生が何もできなかったことをきっかけとして,アジアの医学生を中心に国際協力ができる体制をつくるため発足した。

 アジア医学生会議(AMSC=Asian Medical Students' Conference)はAMSAの人的交流ネットワークの基盤として1980年に始まった会議であり,医学生として国際協力を考えていくうえで,異なる社会的,文化的,歴史的背景を持つアジア諸国についてよく知ることを目的としている。2004年度は12月26-31日の日程で大阪にて開催された。東アジアを中心とした9の国と地域(日本,韓国,台湾,香港,マレーシア,タイ,インドネシア,フィリピン,イラク)から総勢約150名の参加者が集い,「The Nature of HEALTH Exploring the Medical Profession and Social Expectation」をテーマに意見・情報を交換しあい親睦を深めた。

 26日夕刻にはAMDAからスマトラ地震の被害状況が宿舎にFAXで次々と入ってきた。AMDAは既にAMDAインドネシア支部から医師団と日本人調整員1名の派遣を決定したという。これはただごとではない。私は参加者全員にこの地震による被害速報をアナウンスし,AMDAからの情報を逐一伝えることにした。しかし彼らは国際電話やインターネットで連絡を取り合って冷静を保ち,会議は滞りなく終了し,われわれは再会を約束して散会した。

インドネシアへ

 1月1日18時30分,福山の祖母宅へ帰省中の私の携帯に菅波代表より連絡が入る。

 「2日か3日発でインドネシアのバンダアチェに行ってください」

その晩の家族会議では親子で紛糾した。
 「行っても何の役にも立つ訳がない。疫病が怖いから行くな」
 「インドネシアには友人もいる,冬休みの間だけでもなんとか行きたい」

 結局親の制止を振りきるようにして,翌2日岡山のAMDA本部を訪問して説明を受け,ジャカルタへ発った。

 私の立場は医療調整員だ。しかし主な役割はAMDA本部と現地の情報の橋渡しと食糧・医薬品の購入と運搬,ビデオやカメラによる記録,そして私が帰国した後もAMSAインドネシアの医学生が活動できるよう環境整備をすることである。ジャカルタでは年末に親しくなったNanaらAMSAの友人らとともに食糧や物品の調達をした。自分たちの食糧や医薬品などは自前で調達していき,現地に迷惑をかけないよう自己完結することが活動の大前提だ。私の判断により関空で整腸剤(正露丸),虫除けスプレー,解熱剤,などを購入したのだが,現地でAMDAから派遣された日本人医師に教わった情報によると,正露丸は腸からの病原菌の排除を遅らせ,病状が遷延化するので熱帯地域では禁忌だそうだ。

現地活動(1月6日-10日)

 6日には空路メダンを経由してインドネシアで最も被害の大きいバンダアチェへ入った。意外なことに空港周辺からメインストリートにかけては,山積みの瓦礫などは見あたらず青空市場も見つけることができた。しかし車に乗って海岸の方へ向かっていくにつれて徐々にその様相は悪化していった。活動地かつ宿営地であるザイナルアビディン病院の周辺は,まるで洗濯機でまわした後のような惨状で,聞けば数日前まで川には遺体が詰まっていて流れを遮り,道の両側には亡骸が積みあげてあったそうだ。すでに遺体は処理場に置いてあるとのことだったが,風向きによって時折鼻をつく匂いは「死臭」であるとのこと。あるインドネシア人医師は「この津波被害は広島の原爆を思い出させるぐらい酷い状況だ」と語った。

 ザイナルアビディン病院は400床のバンダアチェにおける中核病院だが,津波の土砂が地面から1.5mのところまできており1階部分は全壊し,多くの患者や医療関係者が犠牲になった場所でもあったのだ。とても医療活動どころではなく瓦礫の山を重機を用いて取り除き,泥まみれの建物を清掃するところから活動が始まった。また到着時には院内の電気・水道は断たれていたが,6日19時過ぎにはジェネレータにより電球の使用が可能となった。ライトがついた感動的な瞬間に現地の方も各国からの支援者も皆いっせいにハイタッチ。ソファのクッションを敷き自分の寝床は確保して生活空間を整備したものの,当面はザイナルアビディン病院での医療活動は現実的ではないと判断された。インドネシア軍の協力を得て野外仮設クリニックを設置して診療活動を開始した。

 津波から逃れるため山へ逃れキャンプ住まいをしているが,虫や毒蛇がこわくて眠れない患者や,津波の水を飲んで体調が悪くなった患者に対応した。阪神淡路大震災災害時には外傷患者だけでなく,透析患者など慢性疾患への対応が求められたと聞くが,この野外仮設クリニックを訪れる方も外傷よりも精神的苦痛,病院が倒壊したことによりフォローできなくなった慢性疾患の患者が多かった。私はポリクリ医学生そのままに医師にはりついて診療活動を手伝い,記録した。

 8日までバンダアチェで活動し,メダン,ジャカルタ経由で10日に帰国した。

現在(2005年4月)

 日本の医学生が1人で被災地に飛び込んで,どこまで役立てたかは今でも自問中だ。現地まで行けばやるべきことは即座に見つかった。しかしそれは現地でのコーディネータを中心としたハード,ソフト両面での活動環境の整備のおかげに他ならない。突然医師がボランティアとして現地に登場しても,右往左往することは必至だろう。AMSAインドネシアの友人たちがジャカルタでの準備に協力してくれ,AMDAインドネシア支部がバンダアチェでの受け入れ準備を整えてくれていたからこそ,AMDA各国からの医療チームの活動を可能にしたのだと思う。省みるに医学生のフレンドシップが有事において菅波代表が語る,苦労を共にして尊敬と信頼が芽生えるパートナーシップとなりえただろうか。私の帰国後,NanaたちAMSAインドネシアの医学生がバンダアチェに入り,医療通訳,清掃,医薬品管理,患者受付などの活動を行った。被災者の方々に支援のこころが伝わって絶望の暗闇に希望の灯がともる一助となったことを願う。そういう私は,帰国してからは大学で相変わらず留学生との交流を楽しみながらポリクリに勤しんでいる。何よりまず日本で「使える」医師になることだ。

AMSAホームページ
http://square.umin.ac.jp/amsaj/
AMDAホームページ
http://www.amda.or.jp/


山道 拓さん
阪大6年。国際保健医療学会学生部会代表。国内外での国際交流に打ち込む一方で,米国での在宅ホスピス研修,ラボでのマラリア研究,釜ヶ崎でのフィールド活動などを通して,病院の外の命や健康を強く意識する。聴診器やメスだけでなくシステムや国家機関まで保健医療の道具とするような医師をめざす。
E-mail:yama6700@smile.ocn.ne.jp