医学界新聞

 

特別寄稿

『ALS 不動の身体と息する機械』を読んで
――ALSの隠喩について(前編)

宮坂道夫(新潟大学医学部保健学科助教授・生命倫理学/医療倫理学)


 昨年弊社より刊行された『ALS 不動の身体と息する機械』(立岩真也著)が反響を呼んでいる。『自由の平等』『私的所有論』などの著書がある気鋭の社会学者・立岩真也氏が丹念に拾い上げた,ALS当事者の声は,医療者にどのような問いを投げかけるのか。今号と次号(2622号)の2回にわたって,生命倫理学者の宮坂道夫氏が本書を読み解き,医療倫理の課題に迫る。


「不動の身体」

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)は,国内に約7000名の患者がいるとされる運動ニューロン疾患で,難病(特定疾患)に指定されている。

 この病気が時に「難病中の難病」と言われるゆえんは,原因不明であることや治療法がないこと以上に,その特有な症状にある。つまり,全身の運動機能,発声,嚥下,呼吸という人間のごく基本的な身体機能が順次失われてゆく。その一方で,感覚や知覚は障害を受けない。それを雄弁に物語るのが,宇宙物理学者のスティーヴン・ホーキング博士がALS患者だという事実であろう。

 症状が進んだ患者は身体をほとんど動かせない寝たきりの状態になるが,わずかに残った運動機能(手足の指や,口,眼瞼など)を使って,パソコンなどで意思表示をしたり,コミュニケーションをすることができる。病状が進行した患者の中にも,ホームページをつくってさまざまな意見を表明したり,人に指示を出して仕事を続けたり,活発に社会的活動を続ける人がいる。

ALSと「尊厳死」「安楽死」

 ALSは,医療倫理の領域では特別な関心が持たれてきた疾患でもある。この疾患は,しばしば安楽死や尊厳死といったものと結びつけられて論じられてきた。

 事実として,世界で例外的に安楽死や自殺幇助を認めているオランダでは,全死亡のおよそ2-3%が安楽死または自殺幇助によるが,ALS患者はその10倍の20%の高率で安楽死が選択されている1)。このような実態があるために,ALSという疾患は必然的に安楽死や自殺幇助の問題と関連づけて取り上げられることが多くなる。

 日本では安楽死も自殺幇助も認められていないが,「人工呼吸器の装着・離脱」が1つの大きな争点として議論されている。

 ALS患者の呼吸困難に対して,現状では気管切開と人工呼吸器の装着が唯一の確実な緩和処置である。人工呼吸器をつければ,患者によっては10年以上生きる。ただし,人工呼吸器の装着には痰吸引などの24時間体制の介護が必要であり,この点が特に大きなネックとなる。

 日本神経学会のガイドラインでは,「人工呼吸器の使用を望んでも単身者は不可能であり,家族の積極的姿勢が不可欠で生活歴の中に深い愛情,信頼がなければ非現実的である場合がほとんどである」と,介護体制がなければ人工呼吸器の装着が難しいことが明記されている。「いったんつけた人工呼吸器をはずしてよいか」という点も倫理的な難題であるが,同ガイドラインでは「本人が望んでも人工呼吸器の停止は不可能」としている。

立岩の本

 立岩の『ALS 不動の身体と息する機械』は,こういった難しい問題に対して,社会学者の視点から1つの見識を示す著書である。何よりもまずその形式に驚かされる。500を超える多数の引用が並んでいる。その多くは,ALS患者が,様々な刊行物やインターネットのホームページなどに発表したものである。

 当事者の語り(ナラティヴ)を拾ってゆく作業は,民族誌(エスノグラフィー)と呼ばれるが,この本は,それとはだいぶ異なる。エスノグラフィーが通常は当事者の語りを丹念に写し取る中で,その人々が生きる生活世界の実態を活写してみせる――いわば《事実fact》について記述であるのに対して,立岩の本は,単なる《事実》の記載ではなく,その《評価evaluation》を行う目的で語りが編集され,構成されている。

 こんな風にいうと,「他人の言説を独善的に編集しているのではないか」と疑う人がいるかもしれない。しかしそうではない。立岩の態度は,首尾一貫して,公正fairであろうとしているように思う。論理学で「あらかじめ1つのことを真と決めつけてしまうこと」を論点先取と呼ぶが,立岩は首尾一貫して,ALSをめぐる言説に散見される論点先取に疑問をぶつけている。

 例えば,「予後」という,診断の根幹についての矛盾が本書の冒頭で指摘される。ALS患者が医師から「2-3年の命」「長くて5年」というような予後を告げられたという証言が多数掲げられる。ホーキングも余命2-3年だと告げられたといい,また医学書などにもそうした記述があるという。

 しかし,これらは人工呼吸器を装着しない場合の予後であり,人工呼吸器を装着すれば,患者が20年以上生き続ける場合もある。立岩は,「対応しないときに訪れる死までの時間をこの病気の『予後』とするのはおかしいのではないか。予後は放置した場合の『自然』の経過ではない」と疑問を呈する。至極もっともな指摘だろう。

延命処置をしない,という問題

 そのような論点先取に陥りかねない大きな問題として,上に述べた《人工呼吸器の装着・離脱》の是非をめぐる議論がある。これが本書の1つの焦点になっている。

 この点について,立岩の立場は明確である。この本は,《ALS患者は生きるべきだ》という生の肯定のメッセージに溢れている。立岩は,人工呼吸器を装着せずに死を選択することについて,《尊厳ある死》《自然な死》というような観念で捉えることに疑問を呈する。「息が苦しくなったら,自分らしく,自然に,死ぬだろうか」という素朴な疑問を出発点に,患者の語りを丹念に追ってゆく。

 人工呼吸器を装着することは,当たり前の選択にはなっていない。日本のALS患者のおよそ6-7割が,その選択をしていないという。その《人工呼吸器をつけずに死を選ぶ》という選択は,患者が本当に納得してしているのだろうか――1人の患者の逡巡をめぐって書かれている第7,8章は,この点について多くの患者が思い悩みながら苦しんでいる姿を浮き彫りにする。《人工呼吸器をつけずに死を選ぶ》という信念を掲げながらも,闘病をし,またさまざまな活動を繰り広げる中で,その信念が揺らぎ,時に思い迷いながら,最終的には人工呼吸器をつけずに死んでいった1人の患者について書かれている。

 この患者はALSの患者会を立ち上げ,病室や自宅で孤立していた全国の患者を結びつける活動をしてきた,よく知られた男性の患者である。特に興味深いのは,同病者が人工呼吸器をつけることができずに死んでゆく姿を目の当たりにして,憤りを表明している様子である。

 自分は「人工的な延命は望まない。自然のままに召されたい。それが残された願いである」(本書の引用番号【319】)「人間のあみ出した機械でやみくもに生かされ続けるのは,ご免こうむりたい」(同【331】)と言いながら,同病者が人工呼吸器をつけずに死んでゆくのを無念の思いで見つめているのである。

 また彼は,「人工的な延命は望まない」という信念を抱く一方で,「意志を伝える手段を奪われ,丸太ん棒のようになっても,私は,人間としての意識を持っている限り,生きていたい。生かされ続けたい」とも述べている(同【332】)。人工呼吸器をつけても発声する装置があるし,コンピュータなどを使って意思疎通をすることはできる。そのことは本人もよく知っていて,自分の考え方の矛盾をめぐって逡巡している様子が描かれている。

倫理問題に影響するイメージ,類比,隠喩

 この1人の患者の姿には,死を前にした人間が抱く不安や,心の揺らぎ,葛藤がよく現れている。《人工呼吸器をつけて生きるか,つけずに(あるいは,はずして)死ぬか》という文字通りに究極の選択は,患者にとっても,また家族や医療従事者にとっても,決定的な決め手のない,不安定な選択である。その不安定さのために,《人工呼吸器の装着・離脱》という問題は,視点の置き方,視野の広さによって,結論が180度変わってしまうことにもなる。

文献
1)J.H. Veldink, et. al., “Euthanasia and Physician-Assisted Suicide Among Patients with Amyotrophic Lateral Sclerosis in the Netherlands.", New England Journal of Medicine, 346(21), 2002, 1638-1644.


宮坂道夫氏
新潟大学医学部保健学科助教授。早稲田大教育学部理学科生物学専修卒業後,阪大大学院では医科学修士,東大大学院で博士(医学)を取得。「生とは何か?」を問いの中心に据え,生命倫理,医療倫理学に取り組んでいる。訳書に『医療倫理-よりよい決定のための事例分析(1・2)』(みすず書房,2000・2001)がある。また,2005年2月末,弊社より『医療倫理学の方法――原則・手順・ナラティヴ――』を刊行予定。

「宮坂道夫研究室ホームページ」
http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/