医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

13R

うれしいような,かなしいような

名郷直樹   地域医療振興協会 地域医療研修センター長
横須賀市立うわまち病院
伊東市立伊東市民病院 臨床研修センター長


前回2593号

○月△日

 あっという間の4か月。研修医のローテートがはじまって2か月。そして夏だ。引っ越してから最初の夏。標高550メートルの高原から引っ越して暑い夏を恐れていたのだが,今年の夏はぜんぜん暑くない,むしろ寒い。暑い夏を恐れながらも,輝く太陽,青い空,そして青い海,そんな期待もなかったわけでなく,うれしいような,かなしいような,暑くない夏。思えばこの3か月,すべてが,うれしいような,かなしいような。

 話は変わって,夏の一大イベント,勝手医療学会の学生セミナーに参加した。100人以上の学生が集まるこの会は,研修医リクルートのための絶好の機会である。夏休みまで勉強しようという学生がこれほどいるとは! これもまた,うれしいような,かなしいような,ではある。何かとっても純粋で,でもすこし頭でっかちで,自分の将来について真正面からまじめに取り組んでいるのだけれど,他人に対する関心より,自分自身に対する関心が強くて,何か人のお役に立ちたいと強く思いながらも,お役に立てるということより,お役に立てる自分が最も重要かもしれないという自己矛盾。

 話を勝手医療に戻そう。そんなうれしいような,かなしいような学生ではあるが,新しい医療の流れにはなかなか敏感だ。勝手医療というのは,最近はやりの新しい医療の流れのひとつだ。患者の勝手を認めることが重要というが,本当にそれだけで医療が成り立つのか,患者の勝手を認める以上,医者の勝手を認めることも重要なのではないか,お互いの勝手を認めることから,新しい医療の可能性を探っていこう,そんな医療をいうらしい。結構自分にぴったりくる。患者の立場を考える前に,自分の立場を考えなければ医療どころではない。そんなふうに思っていた。医者の勝手,そんな不謹慎な,そんな意見もあるだろう。しかし自分自身の勝手を認めることができなくて,どうして他人の勝手を認めることができるだろう。エゴということを考えてみる。エゴとは自分自身を特別扱いすることだ。自分を例外にするといってもいい。そうすると,自分の勝手は許さず,他人の勝手は許す,これもエゴではないか。あまりに自分に厳しく,患者に優しい人は,かえって患者に圧力を与えてしまうかもしれない。自分勝手に対する対策は,どちらの勝手も認めないか,どちらも認めるか,そのいずれかしかないのではないか。

 夜中に血圧が高いといって診察を希望する患者さん,診察室で訴えが止まらない患者さん,昼間は仕事があるからと必ず時間外にかかる患者さん。そうした患者さんを受け入れることは確かに重要だ。しかしそうした状況を常に心から受け入れることができる医者はまれだろう。常に受け入れることができるようなスーパー医師でない限り,自分の立場やこちらの勝手も少しは考慮し,現実的な対応,対策を迫られる。現実的な対応を考えた時に,医者が自分自身の勝手をどれだけコントロールできるのか,あるいはできないのか,それを無視して,僻地の現場で長く継続的な医療を続けることなんてできない。自分自身がまさにそうだ。自分の立場が,患者の立場と同様に重要ではないか。自分を特別に考えないことが重要だ。自分も患者と同様,少しは自分勝手で,少しは思いやりがあって。ぴったりくるというのはそういうことだ。

 自己犠牲は他人に犠牲を強いる
 自分勝手は他人の自分勝手を許す

 勝手医療の枠組みの中で,患者中心の医療という言葉もよく聞く。何年か前,根拠に基づく医療,Evidence-based medicine:EBMという言葉が医療界を席巻した。自分自身その流れの真只中にいながら,根拠に基づくという言葉に対する違和感は相変わらずだ。その時の根拠に基づくという言葉に対する違和感と同様,患者中心という言葉にも,ある種の違和感を感じる。根拠に基づくというが,基づかない医療なんてのがありうるのか。なぜそんなことが問題になるのか。患者中心,そんなこと当たり前じゃないか。わざわざいうことか。しかし当たり前だという反面,現実を考えるとそんなきれいごとを言ってもという本音がちらつく。そんな違和感である。

 患者中心の医療に真正面から取り組むのはなかなか困難である。最初は何とかなるとしても,長続きしない。医者自身が疲れ果ててしまう。自分自身も10年以上の僻地医療の現場で疲れ果ててしまった。患者の勝手と自分の勝手のバランスが取れなければ,質の高い継続的な医療を提供することはできない。あんまり真正面から取り組んじゃいけない。それは僻地での経験から得た大きな教訓のひとつだ。患者中心などと大上段に構えず,ハスに構えてやったほうがいいかもしれない。

 かごめかごめだったっけ? 後ろの正面だーれ? なんて歌があったけど,ハスの正面は誰か? ハスに構えた自分に対して,ハスに構えた自分の正面にあるのは何か。そこにあるのは自分中心の医療,自分勝手じゃないか。自分勝手に対しても少しハスに構えて,自分自身ともうまく付き合うことができたら,何か変わるかもしれない。しかしもう時すでに遅し。自分自身は臨床の現場を離れてしまった。臨床現場にいれば何か変わるかもしれないけれど,今はもうひたすら自分勝手な毎日だ。ひたすら自分勝手なので,自分自身の自分勝手に向き合うことすらない。自分の自分勝手に向き合うというのは,誰かの自分勝手に向き合ってこそ可能だ。逆もまた真かも。自分自身の自分勝手に向き合ってこそ,他人の自分勝手に向き合うことができる。臨床を離れ,自分勝手だけですむ毎日。この夏のように,うれしいような,かなしいような毎日。

 僻地診療所にいても,病院にいても,あるいは臨床の現場から離れても,あるいは医師を辞めても,どこにいても,死なない限り,うれしいような,かなしいような,それだけは変わらない気がする。しかし,うれしいばかりの毎日は3日で飽きるだろう。かなしいばかりの毎日にはとても耐えられない。このうれしいような,かなしいような毎日が,何かを持続するための,唯一の道ではないか。これからも,うれしいような,かなしいような,その境目のすれすれのところに身を置きながら,でもどちらかというとうれしいほうに傾いている自分。そしてそのすれすれに身を置く自分を眺めるもう一人の自分,その自分は今度は少しかなしいほうに傾いて。


名郷直樹
1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。