医学界新聞

 

ヒト細胞をめぐる研究と倫理を議論

第22回日本ヒト細胞学会シンポジウムより


 ヒト受精卵由来の胚性幹細胞(以下ES細胞)が樹立され,総合科学技術会議の生命倫理専門調査会でもヒトクローン胚の作成が基礎研究に限り認められるなど,ヒト胚,ヒト細胞をめぐる研究,議論は新たな段階に進んでいる。

 こうした中で,さる8月7日に東京都港区の東京慈恵会医科大学において開催された第22回日本ヒト細胞学会では,石川博会長(慈恵医大教授)のもと,「ヒト細胞を用いての医療とビジネス化,そして倫理」(世話人=京大名誉教授/日本生命倫理学会初代会長 星野一正氏)と題し,市民公開シンポジウムを行った。

■社会と合致した生命倫理・指針を

 最初に挨拶として登壇した石川会長は「クローン羊ドリーの成功以来,クローンやES細胞の有用性が指摘され,研究およびビジネス化が進んでいる」としたうえで,その倫理性が問われていることを指摘。こうした背景から,社会に対する情報発信の場を持つ必要性を感じたと,シンポジウムの主旨を説明した。

 西谷巌氏(松誠会顧問/日本ヒト細胞学会倫理委員長)はまず,ヒト細胞学会が2001年に作成した「ヒト細胞取り扱い指針」について,「死亡した胚,胎児については親権者への説明と自発的な同意を得る」,「細胞株を樹立者や管理者の許可なく譲渡できない」といった内容を紹介。また,「生体の臓器・組織は手術摘出後の余剰部分の利用に限る」として,研究目的での細胞の採取は許されないことを強調した。

 さらに氏は,生殖補助医療や難病の受精卵着床前診断,ES細胞の樹立による再生医療の研究を日本ヒト細胞学会は今後も積極的に推進するとしつつ,それに伴う法的・倫理的問題は「国民的対話,国家的議論が必要であり,限られたコミュニティである学会が結論を出すべきではない」として,世論を反映しつつ,適切な指針にしていきたいと述べた。

 青木清氏(上智大名誉教授/日本生命倫理学会長)は研究者の倫理ガイドラインについて,「国が中心的に行うよりも,研究者団体である学術会議などが多くの意見を取り入れながらガイドラインを作り,それを国に採用してもらうのがよいのではないか」と提言。社会には生命科学への不信感を持つ人々も多い一方で,生命科学や医療の進歩を望む声も強いことから,その両方を含んで考えていかなければならないことを強調した。

 氏は「生命倫理を守るのは人々の共有の価値観」であるとし,社会・国民に向けた科学的なコミュニケーションの重要性を指摘。「倫理は社会とうまくかみ合わなければならない。見切り発車することなく,社会のコンセンサスを得る努力が必要」として,今回のような場が今後も続けられることに期待を寄せた。

ES細胞研究の今後

 わが国ではじめてヒトES細胞を樹立することに成功した中辻憲夫氏(京大再生医科学研究所)は,ES細胞の意義として(1)細胞治療,人工臓器のための材料,(2)基礎研究や創薬研究に必要なヒト細胞の供給といった用途があることを指摘した。

 これまでに提供を受けた20個の受精卵のうち,3個がES細胞を採取できる胚盤胞にまで発生し,ここから3株のES細胞を樹立することに成功。今後はナショナルバイオリソースプロジェクトの一環として使用機関へ分配を行っていくという。

 氏はまた,受精卵ではなく体細胞核移植によるヒトクローン胚からES細胞を樹立することについて,「拒絶反応のない細胞治療などへの応用が期待できるが,ヒトクローン胚作成ということ自体に倫理的問題がある」と述べた。しかし,これについては現在マウスES細胞において卵子様の細胞への分化に成功したという研究報告があることから,いずれES細胞を「卵子に類似した」細胞に分化させ,それに対して体細胞核移植を行うことも可能になるのではないか,との考えを示した。

 高村健太郎氏(メディネット)は先端医療を扱う企業の立場から発言。再生医療などの最先端医療は優れた治療効果があったとしても,現状では限られた医療機関でごく少数の患者しか受診できないことにふれ,その理由として「先端医療に必要とされる高度な技術,専用の機器・施設を一般医療機関が独自に導入することは困難である」と指摘した。

 氏の会社では「免疫細胞療法総合支援サービス」として,活性化自己リンパ球療法において患者血液から採取したTリンパ球を活性化・増殖させるという業務を行っている。氏は「技術者・設備のそろった企業がこうした業務を請け負うことで,品質管理された先端医療を広く一般に普及させることができる」と述べ,先端医療における企業の役割を強調した。

■ヒト細胞は誰のものか

 続いて法的な視点から赤羽健一氏(赤羽法律事務所),片山英二氏(阿部・井窪・片山法律事務所)が登壇。ヒト細胞の法的な取り扱いや,特許について口演を行った。

 赤羽氏は「ヒト細胞の提供は譲渡の対象になるのか?」,「提供者の個人情報をどう保護すべきか」といった法律上の問題について説明。ヒト細胞の有償譲渡については,自分の体を切り売りするような行為は人身売買を思わせ「公序良俗に反する」という理由で無効とされてきた。しかし氏によれば,実際に東京地裁がヒト細胞を「動産」と定義し,1億数千万円という評価をしたことがあるという。この判例ではヒト細胞自体ではなく,その付加価値が有償という判断であったが,「個人から提供されたヒト細胞により社会的に何らかの有益な結果が得られたのであれば,有償でもよいのではないか」と自身の見解を述べた。

 また,提供者の個人情報保護については,「提供者を匿名にすることはコンセンサスが得られているが,絶対に提供者を特定できないようにするのか,あるいは特定できるようにしたうえで匿名にするのかは,議論が分かれる」と現状の問題を述べた。氏は提供者が特定できない場合,個人情報保護の面では提供者は安全だが,もしHIVの感染などが明らかになった場合,特定できないことは提供者の不利益になる可能性もあると指摘した。

医療に特許は認められるか

 片山氏は医療分野における発明と特許について,培養された組織(皮膚,歯槽骨,角膜など)の移植といった,すでに実用段階にある医療分野での発明が複数存在することを紹介。これまでは「医療は産業ではない」として特許のインセンティブを医療に持ち込むべきではないという意見が多かったものの,再生医療については特許化のニーズが強いとみなされ,特許として認める方向性に変わってきたことを述べた。

 具体的には,これまでは「“人間を手術,治療または診断する方法”には特許を認めない」となっていた知的財産権法が,2003年に「人間から採取したものを原材料として医薬品(ワクチン,血液製剤)または医療機器(人工骨,培養皮膚)を製造するための方法は上記に該当しない」に変更となっている。氏はヒトES細胞などを用いた発明については「現在知的財産戦略本部において生命倫理,医療政策などの観点から検討中」とした。

 口演後に行われた総合討論では,会場から「ES細胞の樹立数はもっと多いほうがよいのではないか」といった質問があり,これに対して中辻氏は現在保有している3株の染色体がすべてXXのため「もう1株はXYのものがあってもよいかもしれない」と述べたうえで,「1株樹立するのに非常に労力がかかる。現状の基礎研究の段階では3株あれば十分なのではないか」と回答。ES細胞を新たに樹立することよりも,むしろ臨床応用へ向けての取り組みが重要であると指摘し,動物由来のタンパク質・血清を用いない培養方法の確立や,患者に移植した際の拒絶反応を抑える研究を同時に進めていかなければならないと強調した。