医学界新聞

 

寄稿

世界に通じる感染制御指導者を育成
COE大学院「感染制御科学博士課程」の取り組み

平松啓一 (順天堂大学教授・細菌学,
 同大学院教授・21世紀COE感染制御科学)


従来のシステムでは対応できない病院感染

 トリインフルエンザもSARSも東南アジアにくすぶり続け不穏な情勢です。アメリカでのウエストナイル熱の流行も,とても対岸の火事とは言えない状況です。前世紀まで長い医学の歴史の中で,消毒・滅菌法の発見,ワクチンの発見,抗生物質の発見と,人類は華々しい成果をあげてきたかに見えますが,まだ人類は感染症から解放されていません。むしろ私は,感染症は人類の生存と不可分であるという感慨さえ持っています。かといって,防ぐことができたはずの感染により退院間近な患者さんがお亡くなりになるのをただ見ていることも,もうとても耐えられません。

 私はMRSAの研究に,過去16年間従事してきました。MRSAは,世界中で病院感染をおこす困り者です。わが国でも,毎年,少なくとも2万人以上の入院患者がMRSAのため死亡していると思われます。

 MRSAの最初の分離年は1960年ですが,この年は何とMRSAの頭文字であるメチシリンの開発された年です。つまり,ペニシリナーゼに分解されない画期的な半合成ペニシリンであるメチシリンが開発された,その年に,すでにメチシリン耐性黄色ブドウ球菌が見つけられていたのです。それ以来,多くの抗生物質が開発されましたが,MRSAはそれらすべての抗生物質に多剤耐性となり,ついに1996年には最後まで耐性の出ていなかったバンコマイシンも効かないVancomycin-intermediate Staphylococcus aureus(VISA)を生み出しました。さらに2002年にはアメリカで,バンコマイシン高度耐性のMRSA(VRSA)まで出現しました。これは,バンコマイシン耐性腸球菌(VRE)の耐性遺伝子であるvanA遺伝子が「動く遺伝子」としてMRSAのプラスミドの上に移行して生じたものです。

 このようなMRSAの例を見るだけでも明白であるように,今後どのような抗生物質が開発されても,病院感染を克服することは難しいことがわかります。ですから,いわゆる院内感染対策が大事になるのですが,アメリカは世界で最も優れた院内感染対策を実施していながら,VREやMRSAをコントロールできず,世界で最初にVRSAの出現を見るという不名誉を被ることになったのです。このことは,現代の病院感染は従来のシステムでは対応できなくなっていることを意味しています。医師,看護師,薬剤師,臨床検査技師などの職制を超えた,将来の感染制御を担う新しい専門的指導者を育てる必要があるのです。

COE大学院の創設-カリキュラムは個別に作成

 そこで新しい感染制御指導者を日本独自に育て,世界に発信しようという試みが,このCOE「病院感染予防のための国際的教育研究拠点」の形成として結実しました。2003年の第1期大学院生は,医師4人,看護師2人,臨床検査技師1人,薬学士1人,理工学士2人,総合教養学士1人という顔ぶれて,お互いに刺激し助け合いながら勉学に励んでいます。

 このように多彩な背景の院生への教育カリキュラムは,本人と私と指導教官が相談の上,個別に作成するということで対応します。これは,個々人の個性,能力を生かすという意味でも,最良で最も効果的な教育法だと思います。具体的には,感染制御の教養として必要な知識が欠けている院生には,微生物学,免疫学,病理学,公衆衛生学,生化学,統計学などの系統講義を受講してもらいます。そのための少人数講義を順天堂大学院のCOE担当教官が懇切丁寧に行います。現在この講義は,社会人大学院生も受講できるように週2日18-19時の時間帯で行っています。その他の週の大部分の時間には,後述するように演習・実習を行います。

 この個別対応という考え方には,単に足りないところを補うだけでなく,その個人の過去の経験を最大限生かし,さらに伸ばすという面もあります。例えば,医師免許を持ち臨床経験を持つ者は,米国感染症専門医を取得した臨床医の指導のもとに,感染症の臨床訓練を受け,感染症専門医取得を視野に入れた,感染症の症例研究,臨床研究を行うコースも個別に用意します。一方,生物学や基礎医科学を修め,感染症の基礎研究に従事したい院生には,細菌学,免疫学,病理学,生化学といった諸領域の優れた研究者の指導を受け,領域を横断した感染制御科学の基礎研究への道を支援します。この分野「感染と宿主応答」は,これからの基礎医科学のメインテーマの1つとなりつつあり,私どものCOE基礎研究グループは力を入れて取り組んでいます。

魅力ある4年間の学習内容

 この4年間の大学院コースは,前半・後半に分かれ,前半は基礎科学,後半は臨床科学に色分けされています。まず最初の1年間は病院感染起因菌をテーマにして実験を行い,抗生物質感受性試験,無菌操作や目に見えない微生物の安全な取り扱いに慣れ,また,PCR,塩基配列決定,分子疫学などのDNAを用いた検査手法に習熟しながら,実験を通じて,観察,仮説,実験的検証,データの解釈といった,科学的・論理的な思考法を身につけます。実験は主に微生物/感染制御科学の大学院職員がman-to-manで指導します。そして2年度終了までに,院生が筆頭著者となり,英文の研究論文を世界の一流雑誌に投稿・掲載します。これが学位論文となります。この他に,1年時には英国の大学院の講師陣による集中講義が8週間あり,日本では行われていない感染症学,感染制御の系統的な講義を受けることができます。

 世界的に通用する感染制御科学者を育てるため,英語の訓練は欠かせません。毎週1回British Councilで本格的な英語教育を行い,卒業時には海外で就職できるレベルの英語の能力をつけることを目標にしています。

チームの一員として感染制御を実践

 感染制御の本格的な教育課程としては,英国のMichael Emmersonが開設した5年間の大学院コース(Diploma in Hospital Infection Control[DipHIC])があります。私どもの開設したCOE大学院(Doctor course for Infection Control Science)は,この英国の教育コースと臨床教育の面で連携しています。ですから,院生は上記のようにDipHICの教官を招聘した講義・演習を受講し,さらに大学院コースの後半には,英国の感染制御の博士号(DipHIC)を取得した感染制御医師(ICD)の指導のもとに,大学病院のInfection control team(ICT)の一員として感染制御の実践を行います。順天堂大学病院のICTは,現在5名のフルタイムのICNと上記ICDからなり,これはわが国で例を見ない規模で,しかもICNの1名は経験を積んだ英国人ICN(grade H)です。

 このチームの一員として感染制御を実践することにより,病院感染を未然に防ぎ,拡大を阻止することができる能力を身につけます。この段階では,滅菌消毒,空気の流れといったハード面の管理能力だけでなく,現場の看護師,医師などの医療従事者とよい協力関係を構築しながら,ともに病院感染から人々を守るという共通の「空気」を創っていくという高度な能力も身につけます。このことで,はじめて職制を超えた病院感染の制御が可能になります。感染制御は手洗いなどによる感染経路の遮断だけに目を向けているのではなく,感染源を元から絶つと考えたいと思います。特に多剤耐性菌による病院感染は,抗生物質の過剰な使用が放置されていると,MRSAや他の多剤耐性菌VRE, MDRP(多剤耐性緑膿菌),MDRTB(多剤耐性結核菌)などの制御はままならないものとなります。

 医師,看護師など,すべての病院職員からの協力が得られるためには,本人の実力が不可欠ですが,さらにその実力に裏付けられた謙虚さと目標達成へのひたむきな気持ちが大事になります。ですから,まず「実力」を身につけることが何よりも大切で,それに経験を経た「人間性」が加わることが大事です。後半の臨床教育で行われるReflective Portfolioという教育方法は,この経験を得るために「内省」を活用します。心理的な方法論としてたいへん興味深いものです。ここまで達成されると卒業です。この段階では,卒業生はただ一人で地方の病院に赴任しても,自らその状況に応じてガイドライン,マニュアルを起草し,その病院職員の有志を集めて感染対策を講じ,次世代の感染制御指導者を育てることができます。さらに病院だけでなく,未知の病原体による市中の感染症に対しても,その波及を最小限に食い止めるための対策を講じることができるようになるでしょう。これが私どもがめざすマニュアルやガイドラインに従って行う感染対策を超えたクリエイティブな感染対策で,物や金に限定されない「知恵と人間性」による感染制御です。

 来年度の院生募集をはじめました。感染制御科学博士取得者は,卒業後もお互いに連絡をとりながら,それぞれ次世代の感染制御専門家の育成に関わってもらい,日本全国の,ひいてはアジア地域の感染対策に大きな貢献をしてくれることを期待しています。感染症を極め,人々を感染から守ろうという多くの有志が集まってくれることを期待しています。詳しくは,ホームページをご覧ください。

 最後になりましたが,全国の企業,個人の皆様からのあたたかいご支援により,院生の4年間の勉学を支えるための奨学金制度が発足しました。この制度を活用して勉学を志してください。