医学界新聞

 

短期集中連載〔全5回〕

「医療費抑制の時代」を超えて
イギリスの医療・福祉改革

第4回 医療費を大幅拡大するNHSプラン

近藤克則(日本福祉大教授/医療サービス研究)


2589号よりつづく

 NHSの危機的状況から脱するために,ブレア政権が着手した医療改革は,第3の道を基本理念とし,ニュー・パブリック・マネジメントの手法を用いた改革であった。効率だけでなく効果(質)や公正も重視するものである。

 しかし,その成果には懐疑的な意見が多かった。改革の第一線であるべき医療現場は,長年の医療費抑制政策と人手不足などに疲れ「どうせ今度もよくなるはずがない」というあきらめが広がっていた。

医療費を1.5倍に拡大

 2000年新春インタビュー番組(BBC)の中で,ブレア首相は突然,大幅な医療費引き上げ宣言をした。

 当初は「誰も信じなかった」と言われるのも無理はない。突然で,しかも引き上げ幅が,5年間でなんと1.5倍という大幅なものであったからである。しかし,それなりの根拠はあった。GDP比で6%台(当時)に過ぎないイギリスの医療費水準を,他のヨーロッパ諸国の平均水準(GDP比約10%)まで引き上げれば1.5倍になるというのだ。

 言い換えれば,NHSの危機的状況は低医療費がもたらしたものであること,いくら制度改革をしても新たな投資なしには効果は上がらないことが,多くの人にとって明らかだったのである。

NHSプラン

 3月には,ブラウン財務相が,毎年実質で6.1%増の資金をNHSに投入すると約束した。それを受けて,7月に発表されたのが,白書「NHSプラン-投資のための計画,改革のための計画」である。ブレアらがNHS創設(1948年)以降で最大の抜本改革プランと呼ぶものである。

 このプランで,新たに投入する医療費を,どのように使うのか,数値目標とともに示した。例えば,2004年までに,看護師2万人,医師を1万人増やす。そのために医学部の学生定員も1997年比で40%拡大する,などである。

 日本で「医療改革」と言えば,「医療費の一層の抑制」か「株式会社の参入による競争の促進」などによる「効率化」を思い浮かべる人が多い。しかし,イギリスではまったく異なる医療改革が進んでいる。医療の効率だけでなく,安全や質,公正も高めることをめざし,大幅な医療費拡大を伴う改革なのである。

ブレアのNHS改革は成功したのか

 ブレア政権が,1997年からNHS改革に取り組んで早くも7年経った。果たして一連の改革は,成果を上げているのであろうか。賛否両論の評価がある。

 政府は,NHSの業績が改善していると宣伝している。パフォーマンス評価(PAF,2003)の結果によれば,急性期病院を運営する176トラストで,最高ランクの三つ星は前年の45から63へと4割も増えている。これは,待機者リストの長さなど9項目の目標の達成度などで評価されたものである。

 NHS予算を見ると,1997年度の439億ポンド(約8.8兆円)から2002年度に567億ポンド(約11.3兆円)になり,2005年度には764億ポンド(約15.3兆円)と,1997年に比べ1.7倍となる計画である。これによりNHS職員の人件費は20%も増加した。医療費が抑制された1990年代半ばには減少していた看護師が,1997年以降で5万人増えた。建物や設備に対する投資額も,20%の削減から60%の増加に転じたという。

上がらぬ成果or評価には時期尚早?

 国際公衆衛生学会での発表のために2004年4月にイギリスを訪れたその際に,イギリスからの参加者4人に,NHS改革への評価を尋ねてみた。2人は「数字は,操作されている」などの理由で懐疑的な評価であったが,NHSの第一線で働く2人は好意的な評価をしていた。Canterburyに足を延ばして,Kent大学の社会政策学者Baldock教授にも評価を尋ねてみた。その答えは,「医療費用や養成される医学生の数など,インプットが増えたことは間違いない。しかし,インプットを増やしたからといって,直ちにアウトプットやアウトカムの改善にはつながらない。医療には技術が不可欠だからだ。医学生が一人前になり実際に患者を診るようになるには10年かかる。この間に確認されたのはそのことだ」であった。

成果があがらぬ理由

 十分な成果が見られない他の理由としては,以下が考えられる。

 第1は,医師や看護師数もEU諸国よりまだ少なく,人手不足であること。

 第2は,下がりきった医療従事者の志気が改善しないことである。同じ人数でも,医療従事者の志気が低ければパフォーマンスも低い。NHS改革で行われたことは,第三者が定めた標準や基準による評価と,他のトラストとの比較や賞罰など,もっぱら外圧による誘導であるとも言える。これらは低下した医療従事者の士気にはたしてプラスに作用するのであろうか。

 第3に,投入された新たな資金が,欠損の穴埋めに消えてしまった可能性である。例えば,安すぎた看護師の給与の引き上げや,長時間であった研修医の労働時間の短縮などに使われた医療費は,新たなサービス供給を生み出さない。

 イギリスの経験が示すのは,いったん医療現場が荒廃してしまえば,その回復には多大な医療費の拡大が必要になること,しかも医療費を大幅に拡大しても,その効果が現れるには,長い年月が必要となることである。比喩的に言えば,いったん借金がふくれ上がってしまうと,それを返済して完済し,さらにプラスに転じるのは容易でないのである。

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近藤克則氏
1983年千葉大卒。船橋二和病院リハビリテーション科長などを経て,1997年日本福祉大助教授。2000年8月より1年間University of Kent at Centerbury のSchool of Social Policy, Sociology and Social Research の客員研究員。2003年より現職。専門分野はリハビリテーション医学,医療経済学,政策科学,社会疫学。