医学界新聞

 

『援助者必携 はじめての精神科』刊行特別インタビュー

「おとな」の援助者の条件

春日武彦氏(東京都立墨東病院精神科部長)


 弊社発行『援助者必携 はじめての精神科』が刊行以来,現場の看護師を中心に話題を呼んでいる。

 ――我々は患者にとって何者であるべきなのか? その答えは,「互いに納得ずくで,あえて本質に触れない会話を続けていける存在」だとわたしは思う。我々は問題を「解決する」というよりも,むしろ「化学反応を促す触媒」として自分たちをとらえたほうが適切なのかもしれない。(同書本文より)

 著者の春日武彦氏に同書執筆の動機を聞いた。


■「わからないこと」がわかる本

マニュアルには「わかること」しか書いてない

――『援助者必携 はじめての精神科』の刊行,おめでとうございます。本書の帯には「こんなこと,誰も教えてくれなかった!」とありますが,本書にはこれまでの教科書では考えられないくらい,臨床に踏み込んだ内容が盛り込まれています。はじめに,執筆に取り組まれた動機や,従来の教科書との違いについてお話しください。

春日 例えば目の前にいる患者さんがちょっとおかしい,違和感みたいなものがある。そういう時に,それが病気なのかどうか,どう対応するのかという判断が臨床では必要になりますよね。

 そういう判断も含めて,援助の仕事には,「割り切れないこと」を「漠然とした直感」で処理していかなければならないことが山ほどあります。そして,そうした経験が蓄積されていく中で,援助者は成長していくのだと思うのです。

 しかし,実際に直面してみると,そうした違和感や疑問は,人に相談しづらいことが多い。なかなか解決もできない。「言葉にしづらいけど,何かひっかかる」という類のものです。そして,それらを抱えながら仕事を続けるのはたいへんつらいことなんですよね。

 そうした違和感や疑問に答えようというのが,今回の本の眼目の1つでした。しかし,これらの問題は,教科書やいわゆるマニュアルの形式ではなかなかあぶりだすことはできません。結果的に,この本のような多少風変わりな体裁になったわけです。

――従来のいわゆるマニュアル本との違いを一言でいうと何でしょうか。

春日 私もマニュアル本を買うことがありますが,役に立ったためしがありません(笑)。それはなぜかというと,マニュアルには「わかること」しか書いていないからです。臨床にはマニュアル化できる要素とできない要素があって,マニュアル本には「わかること」,つまりマニュアルにできる要素しか載っていないわけです。

 しかし,実際に臨床で問題になることの多くは「できない要素」「わからないこと」のほうです。ですから,この本では「わからないこと」にどうアプローチしていくかを考えることに焦点をあてて書くようにしました。

 例えば,目の前の患者さんが統合失調症なのか人格障害なのか。そうした「線引き」をする時に,チェックリストみたいなものを使って「質問項目にいくつ○がついたら△△だ」といった話をしても仕方がないですよね。

 経験を積んだ援助者は,質問紙ではあぶりだせない漠然とした手ごたえみたいなものを使いつつ判断しています。私は,そうした言葉にできない手ごたえみたいなものがあるのなら,「これは言葉にできないことなんだ」ということをはっきり言うべきだと思うんですよね。

 「方法がないとわかっている」ことと,「実はやり方があるのかもしれないけれども,私は知らない」のでは,まったく違います。方法がないならない,経験を積まないとわからないのなら経験を積まないとわからない。それぞれきちんと言ってあげないと,経験の浅い人は困っちゃうわけです。

「わからないこと」,「むずかしいこと」こそ問題である

――しかし,そうした経験によって培われる感覚のようなものを言葉にしていくのは非常に難しいのではないでしょうか。従来のマニュアル本にそういったものが書かれていなかったのも,この難しさのためではないかと思います。

春日 もちろん限界はありますよね。けれど,ある程度は具体的なこともあるだろうから,そういったことは書いてみたいと思いました。あるいは,普通の言い方ではうまく言えないようなことでも,角度や言い方を変えてみることで,少しわかってくるようなこともあると考え,普通とは違う切り口をいろいろと提示してみました。

 また,精神科は,他の科に比べて生理学的な根拠だとか,援助の根拠となるものが少ないので,他科に比べてその手の混乱の度合いは深いとも思います。ですから,そういうもろもろの「難しさ」を言葉にして示してあげる必要があると感じていました。「難しいから書かない」のではなくて,「難しいからこそ書く必要がある」ということですね。

 結局,「わかること」は誰にだってわかるんですよ(笑)。わからない時に,それがわからなくていいのか,わからないことが敗北であるのか,勉強不足なのか,あるいは将来的にはわかるかもしれないけれど,今わからなくてもしょうがないことなのか,そういうことをはっきりさせないと不安じゃないですか。

 だから,臨床で問題に突き当たった時,少なくとも自分が悪いのか,相談すべきことなのか,あるいはほかの人もそう感じているけれど,あえて口に出していないだけなのか。そういった判断は絶対必要です。せっかく勇気を出してスタッフに相談したのに,「あんた,何わけのわからないこと言ってるの?」って言われたら,身も蓋もなくなっちゃいますからね。

結果として判断がつかないことだってある

――まずは自分たちが「何をわかっていないか」を理解しなければいけないということですね。

春日 そうです。もどかしさの正体がわからなくては,議論しても堂々巡りになってしまいますから。

 それともうひとつ,これは精神科では特にそうですが,一見理屈が成り立っていても,正反対のことが同時に成立してしまう,ということも臨床ではしばしばあるわけです。こういった問題も,マニュアルのように白か黒かで処理できるものではないといえます。

 例えば患者さんが妄想を言っている時に,「とりあえずそれを受け入れる」という考え方があるかもしれませんが,一方で,そんなことをするとよけいに妄想を助長しちゃうんじゃないかという考えもあるでしょう。こういった議論を重ねた場合,ちゃんと「それは間違ってます」と言ってあげるのが正しいのだ,いやいやそんなことをしたら相手は怒り出すんじゃないか……といった具合に,いくらでも正反対の意見が成り立っていくことになります。

 強弁するなら,どちらも理屈としては正しい。そのため,こういった判断を理詰めで考えていっても,結局はわけがわからなくなることが多いわけです。しかし判断を下さねばならない以上,そのへんはやはりある程度のガイドラインを,先輩として示してあげる必要があると思うのです。それは当然,経験に基づいていることだし,理詰めではわからないことだけど,相手は生身の人間ですからね。臨床において身につけておくべき,重要な判断能力だと思うのです。

――本書を拝読していますと,「結果として,判断がつかないということもある」,と書かれていますね。

春日 臨床ではそれは当然のことなんですよ。ただ,判断がつかないのが,自分の経験不足,知識不足,不勉強あるいはセンスの悪さによるものなのか,誰でも判断のつかないことなのか,そこが問題なわけで,その判断だけは自分がやらなければいけない,ということですね。

■「おとな」の援助者になるために

「保留」できる自信が必要

――今回の本では,そうした判断の末に「保留」という選択をするケースをいくつか紹介されています。普通,2つの選択肢がある場合は,無理矢理にでもいずれかを選ぶことを考えると思うのですが,それでもあえて保留する場合があるのだ,と書かれていたことが印象的でした。

春日 臨床ではとにかくいろんなことがありえるわけで,「今は結論が出せない」ということも当然「アリ」です。クリアカットにはいきませんから,とりあえずペンディングということもあるわけです。

 ただ,おそらく人間にとっていちばん苦しいことの1つは,物事を保留にすることなんですよ。結論を急いだほうが楽です。逆に言えば待てる人は「おとな」です。よほど自信があるか,よほど何も考えてないか,どっちかでないと延々と保留なんてできません(笑)。

 誠実な人ほど,保留しているのが苦しくなってくるでしょう。だから,「それはそれで保留してていいんだよ」という確証・裏づけが,この本を読んだ人のうちに生まれてくればいいなと思います。また,物事を保留にできるような,一種の自信が持てれば,自然に運勢が味方してくれるということもあります。ここまでくるとちょっとオカルトに近いですけれどね(笑)。

 いずれにしても,先ほどの例のように,考えられる2つの方向性について,どちらも正しいと思えるのであれば,ほうっておいても最終的にどっちかへ動くでしょう。ただ,今現在は動かさずに保留する,したほうがいいと判断するんだということでしょうね。

――決定しない,というよりは「保留」を選択する,ということですね。

春日 とりあえず強引に決定して,それから考えるというやり方も,たぶんあるとは思うんですが,やはり精神科のような人の心を扱う領域では,そういうのはリスクが高いケースも多いですからね。保留する,というのは当然「アリ」なんです。

めざすのは「真理」ではなく「幸福」

――臨床的な判断ということで,さらにお話を進めますと,すごくおもしろかったのが,AかBかということをチームで話し合った時に,本質的にどちらが正しいのかということとは別次元で,議論の流れがどちらに傾いているのかが,最終的な判断を下すときに大事であるというお話でした。

春日 仮にそれがいい方法であったとしても,スタッフの協力とか,共通認識というものがなければ,いい方法もいい方法でなくなってしまいます。議論の中で最終的に一致を見ないのに,1人で「これが正しいんだ」と独走するのはよくないと思います。

 援助者側の不一致が,患者に悪影響を及ぼすかもしれないということもありますし,そもそも援助者がチームの中で「孤立無援」状態になってしまうことそのものがよくないと僕は思いますね。

――従来の医学の発想だと,まず答え,真理,正解といったものがまずどこかにあって,議論というのはそこに向かっていく手段となっていると思うのですが,この本では,援助者や患者さんの存在が,「答え」を左右することが前提となっているのだと感じました。

春日 結局,われわれが追求するのは,真理ではなくて,幸福ですよね。

 傍から見ると不幸のようだけれど,本人的には幸福ということは当然ありえます。さらに僕は,援助者をはじめとして,その人にかかわった人間があまり寝覚めの悪い思いをさせられるのは嫌だ,というのもあるんですよ。それは,援助者のエゴだといわれればそうかもしれないけれども,人間というのは1人で生きているわけじゃないんだから,患者さんだけではなく,援助者もある程度納得する必要があると僕は思うんですよね。

 そうすると,患者さんだけじゃなくて,援助者も含めて,全体がある程度納得したかたちで落ち着かなければ,たぶん変だと思うのです。本人だって,周りが悔しそうな顔をしているのに,自分だけ幸せだとは本気で思えないでしょうしね(笑)。

「多文化共生」――本当に困ったら,誠実に対応するしかない

――医学的には薬を飲まなければ危ない。しかし患者さんは死んでもいいから,飲みたくない,と言っている。こういう状況がよく引き合いに出されると思うのですが,極端な話,こういう場合に患者さんの意志を徹底的に尊重するのであれば,患者さんが薬を飲まずに死んでしまってもよい,ということになってしまう。しかしそれはよくない,ということですね。

春日 場合によりますが,僕なら「あんたはそう言うけど,俺はそれは嫌だから,俺の言うとおりにしてくれ」ぐらいのことは平気で言いますね。それはそれで,考えてみれば,ドクハラといわれても仕方がありませんが,実際にはその場の勢いもあって,そういう言い方でちゃんと成立することもあると思います。

――「多文化共生」ですね。患者さんの価値観,医療者の価値観,それぞれが一度相対化されてしまった後で,対等にぶつかっていく。単に患者主権ということでもないのだと感じました。近年は医療訴訟の問題もクローズアップされていますが,これについても,単に患者主権という話ではなく,患者-医療者が対等にぶつかりあっていくことが必要だということでしょうか。

春日 たしかに訴訟とかいろいろあるんですが,僕は,トラブルが起きたら基本的には手の内を見せちゃいます。カルテ開示も問題になっていますが,僕は患者さんが見たいといえばそのまま出します。

 無論タチの悪いのもあるんでしょうけれど,やはり訴訟には,相手がこちらの誠意や姿勢を試している部分がかなりあると思うんですよ。ですから,こちらからは「私はアンフェアではありませんよ」ということを率直に示すしかないと思っています。

 そういう意味では,自殺をほのめかす方に対する対応も同じですね。こちらの手の内をさらして,誠実に対応するしかないと思います。たしかに,うつなんかだと,ほんとに死にたいと思っているケースもあります。しかし,コミュニケーション手段として自殺という,いわば究極のカードの持ち出し方をしているというのもあるわけです。そういうのはやはり,こちらの姿勢や考えを試しているという側面がかなりあります。いずれにしても,そういう方におためごかしは意味がありません。自殺や訴訟と言われるとどうしても動揺してしまうと思うのですが,そこは堂々と,誠実に対応するしかないと思います。

――先生ご自身は,最初からそういう姿勢だったのですか? それとも,臨床経験を積まれるうちにそういった対応を習得したのでしょうか?

春日 僕は,わりにそういうところは,もともと手の内を見せる生き方ですね。お芝居をする,というやり方もあるのでしょうけれど,僕はあとで自己嫌悪になりそうだからやりませんね。

 例えば,患者さんが自殺するといった時に,「そりゃ困ったな」とオロオロしてみせるというのも1つのやり方だと思いますけれど,それこそそれに合ったキャラクターが必要なんじゃないでしょうか。

――その人なりの方法があると言うことでしょうか。そういう意味でも,「誰がやっても同じ」ということが前提になっている,マニュアル的な方法論とはずいぶん違うわけですね。

春日 そうですね。その人なりの一貫性のあるやり方があって,それは1人ひとり違ってよい,ということですね。

■援助者はもっと「ゆるく」なっていい

答えにくい問いに答える3つの方法

――本書が「わからないこと」「答えにくいこと」に答える画期的な本だということがだんだんとわかってきました。その意味では,本書のQ&Aはその象徴ではないかと思います。

春日 Q&Aの部分は,本文で書ききれなかったところを全体の流れとして出てくるようにというかたちで考えたんです。この部分は本文とは違ってしゃべり口調で書いていますので,それゆえに答えにくいことに答えることができました。話言葉だからこそ,物事を断定せずに,曖昧さや,雰囲気を込めて書けたんじゃないかと思います。

 もともと僕は,答えにくいことをいかに答えるかを考えるのが好きなんですよ。単なるパズルとして。だから,このQ&Aの形式も,そういう答えにくい問いに答える方法の1つとして書きやすかったなと思っています。

――通常のQ&Aと違って,あるQに対するAが,また次のQにつながっていくような数珠繋ぎの構造を持っていますが,これも「答えにくい問いに答える」のに有効だったのでしょうか。

春日 問いと答えが1対1で完結するような話だったら,それこそマニュアル本でも書けますよね。だから,こういう構造になるのは必然なんです。

 答えにくい問い,というのには3つくらいパターンがあるんです。1つ目は,その設問自体に変なところ,破綻があるから答えにくいというもの。これに対しては,その設問のどこが変なのか,ということを言わなければいけない。2つ目は,答えが存在しない問いです。これも当然ありうるわけで,この場合にはやはり何ゆえに答えが存在しないのかを答える必要があります。3つ目は,一応は答えられるのだけれど,どこかに「余り」みたいなものがある場合です。ただ答えるだけだと「スマートな答え方で逃げたね」という感じがするので,こういう場合は,「こう答えたらうまくいくだろうけれども,この余った部分が肝心なんですよ」という答え方がしたくなります。

 マニュアル本がつまらないことが多い理由の1つに,僕は分担執筆があると思っています。分担執筆の場合,それぞれの章で自己完結しなきゃいけませんよね。でも実際には自己完結できるような問いはそんなに多くありません。逆に自己完結できるような問いの答えなんて,誰でもわかるようなものばかりになってしまいがちです。

わからないからといって逃げない

――1つ目の「問いが破綻している」や2つ目の「答えがない」という選択肢を想定することで,そこからいろんなことが見えてくることがあるということですね。

春日 そうです。「答えがない」イコール「敗北」じゃないわけですから。「わからない」というのは単に放棄するとか,敵前逃亡という話ではありません。いろいろ考えても「わからない」ということはある。一生懸命考えたからといってわかるとは限らない。でも,援助者は「わからないからといって逃げない」人たちなんです。それが行動としては「保留」や「待つ」ということになるわけですね。

――3つ目もおもしろいですね。ちゃんと答えても,余りがある。患者さんはもちろん,実際の人生における問題も,解決したら終わり,ではありませんからね。

春日 だからこの本は人生論でもあるんですよ。「めざせ,日野原重明先生」です(笑)。

――しかし,この3つの答え方は,これまで医学界,あるいは自然科学界ではある種「禁じ手」でした。医学では1つの問いには1つの答えで答えなければならない。答えようがないと言ってはいけないし,余りがあってもいけない。

春日 そういう意味では,これまでが真面目すぎたところはあるんだと思いますよ。学問なら厳密さを求めてもいいと思いますが,われわれは人間を扱うわけだから,もうちょっとゆるい話だと思うんですよ。そうすると,多様性もいろいろ出てくるわけだから,1対1対応の発想で援助をやるのはまずいと思います。

 今回の本のサブタイトルである「援助者必携」の援助者というのも,そうした「ゆるさ」「幅広さ」を表わしているつもりなんです。看護師だとか,保健師向きだとか,そういうことではなくて,もう少し広くとらえてもらえたら,と思います。極端な話,「援助者」でない人はいないわけですから。

「燃焼系」はもうやめよう

――これまでが真面目すぎた,というお話がありましたが,先生は『病んだ家族,散乱した室内』では,「好奇心」を援助者の資質としてあげておられます。先生の考える援助者の資質とは何でしょうか。

春日 もともと援助者というのは,金銭的にわりに合わないのが普通です。ですから,おもしろくなければバカバカしいというのがあって当然だと僕は思います。そしてその場合の「おもしろさ」は,酒を飲みながらの馬鹿話ではなく,やっぱりどこか自分とつながってくる部分がなければちょっと寂しいだろうなと思うのです。

 そのように考えると,援助者の仕事というのは常に自分に跳ね返ってくるものだということはできると思います。自分に近いものを感じ取ったり,逆に自分にはまったくないものを見て困惑したり。そういった体験を面倒くさいと思うか,得したと思うか,その気の持ちようでぜんぜん違います。

 僕が「好奇心」というのは,そのことをおもしろい,得した,と思える資質ということですね。逆にいえば,めんどうくさいと思う人はつらいだろうなと思うのです。

――一般的には,金銭的に合わない部分を,好奇心よりはむしろボランティア,あるいは自己犠牲的に燃焼している人も多いのではないかと思います。

春日 一生懸命やればその分結果が出るような仕事なら,それもいいと思いますが,実際にはそううまくいきませんからね。

 自己犠牲で燃焼しようとする人は,どこかで「こんなに私がやってるのに」と腹が立ってくるか,燃え尽きて辞めちゃうかのどっちかじゃないでしょうか。援助者になる動機づけとして,自己犠牲というのは,僕は絶対に成立しないと思っています。結局それって,相手に対して無理強いするということになるでしょう? 「私がこれだけ譲歩してるんだから!」って。最終的には,自分を満足させるために,相手を組み伏せなきゃならないことになるんじゃないでしょうか。

――世間一般に流布している看護の「自己犠牲」や「献身」といったイメージでは,援助はやっていけない,ということですね。

春日 少なくとも,それを中核にすえている人は,相手をそのまま,いわば泳がせておくことができない人たちですよ。思いが強すぎますからね。そういう人は必ず,コントローラーになっちゃうでしょう。先に述べたような「保留」を選択することができなくなってしまう。「おとな」の援助者になれないと思いますね。

 「好奇心」というと,なんか,不謹慎な感じを持つ人もいるみたいですが,そういうのは間違いですよ。だって,笑い物にしているわけじゃないんですから。好奇心というのはまず「その人に関心を向けている」っていうことです。そしてそのうえで,ある程度距離を置くということ。この2つがそろってはじめて「好奇心」なんです。

 「おもしろい」って思えないと仕事として続きませんし,変にのめり込むとプロとしての選択肢が少なくなるし,判断ミスにもつながります。そういう意味で,好奇心があるというのは援助者としていいことだと僕は思いますね。(了)




春日武彦氏
1951年京都生まれ。日医大卒。医学博士。6年間産婦人科医として勤務したのち,障害児を産んだ母親のフォローを契機に精神科医となる。大学病院や単科精神病院に勤務の後,都立中部総合精神保健福祉センター,都立松沢病院などを経て,現在は都立墨東病院精神科部長。著書に『ロマンティックな狂気は存在するか』(新潮社OH!文庫),『顔面考』(紀伊国屋書店),『不幸になりたがる人たち』(文春新書),『病んだ家族,散乱した室内』(医学書院)など多数。現在,幸福論について執筆中。