医学界新聞

 

名郷直樹の研修センター長日記

10R

何もしない

名郷直樹   (地域医療振興協会 地域医療研修センター長,
横須賀市立うわまち病院,
伊東市立伊東市民病院 臨床研修センター長)


前回2581号

□月×△日

 医者ごっこは今週で終わり。来週からは,実際の患者さんのもとへ。いよいよ病棟での研修が始まる。オリエンテーションでは,医者ごっこの中で私自身の役割は明確だった。面接技法の基本を模擬患者さんを通して体験してもらう,標準的な身体診察の手順を示す。忙しい研修の中でも現実的な能率のよい勉強法を提示する。しかし,それぞれの研修医を病棟へ送り出してしまったあとで,いったい私にどんな仕事ができるのだろう。臨床医としての立場を持たない教育専任の医師,わたしの仕事は教育です,臨床ではありません,そんなふうに啖呵を切ってみたものの,正直言って自分自身でもどうしていいのかよくわからない。とりあえず椅子に座ってボーッとしてみる。ボーッとしてみるって何だ。そんなこと意識してやるもんじゃないだろ。でもそんな意識もいつの間にか薄れて,ほんとにボーッとしてくる。

 夢かうつつか,10年以上前,本当にボーッとしていた頃を思い出す。最初のへき地診療所勤務にいったん区切りをつけて,母校僻地医科大学に戻った時。これといって研修病院のあてがなく,毎年実習の学生を送り込んでくれたことだけが唯一のつながりだった母校の僻地医療学教室。特に何をしようという問題意識もなく,そのつながりだけを頼りに,一応研修という形でお世話になることにした。学生をいつも送り込んでくれた尾灸野先生だけが頼りだった。そこでまず言われたこと。

 「まあ,休め。1か月は何もするな」

 したいことが見つからない。何をすればいいのかわからない。でも何もしないわけにもいかないからなあ。そんな自分の気持ちを見透かされたような一言。言われた時そのままに,そのままの声の調子で,大きさで,頭の中によみがえる。そうか,何もしないわけにいかないなんて無理しなくてもいいのか。何もしないでいよう。そして言われるままに,1か月本当に何もせず,ボーッとしていた。当時はまだヘビースモーカーで,タバコは吸っていたのだけれど。何もしない1か月に引き続いておきたさまざまなこと,今につながる色々。1か月休んだからそうなったのかどうか,そんなことはわからない。でも休んだことは本当に重要だった,それは間違いない,そう思う。まあ思うだけで何の根拠もないんだけど。

 10年後の今,またボーッとして,しかし今度は半ば意識的に。やりたいことも,何をすればいいのかも,少しはわかっている。別にボーッとしなくてもいいのだけれど。しばらく何もしないのもいいのかもしれない。しかし昔とちょっと違うのは,何もしないなんてできない,そうはっきりとわかっている。

 「何もしない」をする

 何もしないようではお天道様に申し訳がない。そう思っていた。何かしなくては。でも何をしていいのかわからない。わからないから何もしないでいるしか仕方ない。消極的何もしない状態。出直しの一歩を,そんな何もしないからはじめた。そして10年,今また「何もしない」。2つの「何もしない」がはっきりとつながった気がする。「何もしない」というのも,「何もしない」をすることだ。

 医療を提供しないなんて。かつては何も医療を提供しないことに対する抵抗がはっきりとあった。どうしてこの患者さんは血圧の薬をのまないなんて言うのだろう。どうしてこの患者さんは手術を受けないなんていうのだろう。何もしないなんて選択肢はなかった。どうして病気と闘わないのだ。そんなふうに思っていた。今は違う。何もしない自分をお天道様に申し訳がないとは思わない。「何もしない」をしている自分。それでもう十分何かをしている。何もしない自分を許せるように,何もしない患者さんのことが少しは理解できる。理解できる,そんなふうに書くには勇気がいる。でも少しそんな勇気が出てきた。再び思い出す。

 知らざるを知らずとす,これ知れるなり

 「理解できないことだけは理解できる」,もうそんなことならいつだって言える。もちろん患者さんのことをまったくわかっていない自分に気づくこと,それだけだってたいしたことだった。でもそんな理解を少し超える理解。自分も少しは何もしないでいられるし,医療を提供しないことにもう抵抗はない。むしろ多くの場合,医療を提供してはいけないのではと思っている。何もしなかった多くの患者さんを思い出す。

 何も医療を受けずに死んでいった何人かの患者さん。それを不幸なこととしてではなく,何か崇高なこととして,研修医に語ること。何もしないの尊さ,生きるということ,生きないということ,考えるということ,考えないということ,話すということ,話さないということ,むにゃむにゃ。

 「先生,勤務時間中に寝ないでください!」

 寝ていたのかもしれないではなく,寝ていた。起こしてくれたのは,今週から勤務になった事務員の句祖柿さん。とっさの言い訳が口をつく。

 「いやただ寝ていたわけじゃないんだ。寝るをしていたんだ」


名郷直樹
1986年自治医大卒。88年愛知県作手村で僻地診療所医療に従事。92年母校に戻り疫学研究。
95年作手村に復帰し診療所長。僻地でのEBM実践で知られ著書多数。2003年より現職。

本連載はフィクションであり,実在する人物・団体,施設とは関係がありません。