医学界新聞

 

〔寄稿〕

いかにして看護師の臨床能力を育てるのか

川島みどり(日本赤十字看護大学教授)


「何もできない」新人ナースたち

 大学を卒業して直ぐに臨床に出た看護師に,「何にいちばん戸惑った?」という質問をしたら,「卒業したての私が本当に何もできないということを,先輩たちに理解してもらうのにいちばん苦労しました」という。何もできないという言葉の裏には,医療技術の進歩に追いつかない基礎教育の問題があるのだろうと想像したのだったが,意外な言葉が続いた。「注射は無理でも,老人のおむつ交換ならできるでしょと言われて足がすくんでしまったのです。だって,大人のおむつなんて触ったことも見たこともなかったのです」と。
 現在の臨地実習のありようからすれば,このような新人ナースの体験は,珍しいことではないのかも知れない。だが,看護独自の機能ともいうべき生活行動援助のなかでも,とりわけ重要に位置づいているはずの排泄の世話である。それすら1人前にできないまま卒業している実態に,驚いているだけでは済まないものを感じた。

臨床能力育成の前の「壁」

 たとえ新人であろうと看護現場のヒューマンパワーを構成する一員として数えられ,決してプラスアルファの存在ではないところに,現実の厳しさがある。だが,看護師の免許を持って働くからには,大学卒であろうと専修学校卒であろうと,「これだけのことは看護師として責任を持って行なうことができます」という,職能としての最低限の臨床実践能力が求められている。卒業生らの実践力や,臨床能力を身につける必要については,誰しも異論のないところだろう。しかし,声高にその必要を唱えるだけでは問題の解決にはならない。看護専門職としての社会的責務を果たすためにも,現在の限られた条件の中で,どうすればそれが可能であるかを,真剣に追求し取り組まなければならないと思う。
 ここでの臨床能力とは,対象の必要に応じてエビデンス(科学的検証を経たものだけではなく経験知を含む)に基づくアプローチを選択的に実行できる能力である。実践力を含む臨床能力は,単なる知識の伝授や文献学習によって得られるものではない。知識をふまえて幾通りもの経験を重ね,トレーニングを反復する過程を経てはじめて身につく。
 ところが,現行の臨地実習にはあまりにも制約が多すぎて,確かな技術を身につける機会として十分活かされているとは言えない。先の新人のようなエピソードはむしろ当然であり,国家試験をクリアして看護師免許証を手にしたところで,直ちに臨床能力を保障するものではない。そのうえ,高度医療や高齢化に加えて在院日数の短縮がもたらす現場の状態は,これまで経験したことのない過密さの連続する日々刻々である。流動し変化する状況への対応を求められ,絶えず注意の集中を迫られる環境に順応するだけでも,新人にとっては苦難であるといえよう。

「喜び」が人を成長させる

 『はじめてのプリセプター』は,そうした現場の客観的な状況の中で,「今どき新人」の気持ちに寄り添いつつ,かれらのもっとも身近な存在であるプリセプターを支援しようとの思いが執筆動機になった。新人の戸惑いを自分の経験に重ねて浮き彫りにしながら,チームの一員に認められる鍵が「臨床実践能力」であることを,誰よりも実感しているのがプリセプターたちであろう。
 新人の側から見れば,自分とあまり違わない年代のプリセプターの動きを追いながら,「早く自分もああなりたい! なれるかしら?」と思いつつ精一杯の動きをする。「上手にできたじゃない?」と一言かけられるだけで,2つの喜びが彼女を成長に導く。「見ていてくれた喜び」と「やった!できた!」という喜びである。こうした小さな積み重ねが自信につながっていくという意味からも,現場での教育的かかわりがいっそう重要である。

臨床は看護の教室,患者さんは最高の教師

 言語化された知識を伝授するのは,教室内で可能であるが,その場に適した方法を選択して的確な援助行為につなぐという点からは,現場での実地訓練以上のものはないだろう。それを見事に実証して見せてくれたのが,前述書や,今回の特集に登場する7A病棟の「がんばれノート」である。心にくいほどまでに息のあった先輩チームのあたたかな視線が,新人の行動を包み込み,落ち込んで入るときはじっと見守り,必要に応じて励ましている。少し慣れて手抜きが目につくとすかさず課題を与えて評価する。
 その間の相互のコミュニケーションが,あのノートの行間から読者にも伝わってくるだろう。組織的な教育や研修が必要なことは論をまたないが,こうした,具体的な事象や場面を通して育つ新人の姿を通して,プリセプターの臨床能力も発展していくのでないだろうか。こうして,「看護が怖い」から「看護大好き」の間の期間を短縮し,本当の専門職としての看護師に育てていく責務が現場にはあるのだと思う。臨床は看護の教室,患者さんは最高の教師であることを再認識したい。