医学界新聞

 

新春随想
2004


看護の労働環境と患者安全

阿部俊子(東京医科歯科大学大学院助教授・日本看護協会副会長)


医療事故はシステム不全のあらわれ

 患者安全を確保するためには,看護師が安全な労働環境で仕事をしているということが絶対必要条件となる。医療事故が毎日のように報道されているが,「ひとごと」としてその報道を見ている臨床の看護師はいないだろう。看護師がいくら個人で注意しても,労働環境がそれをサポートしていない。システム不全(system failure)という医療組織としての構造上の問題点がある限り,個人レベルでいくら注意しても限界がある。システムもしくは構造とは,施設の構造上の問題でもあるが,人員配置,組織図,診療報酬体系,勤務体制などを包括している。

今すぐできる交代制勤務の見直し

 平均在院日数の短縮などで看護をとりまく医療環境は大きく変遷している。その中で,あまり変わらないのは,施設基準を軸とした人員配置のあり方と夜勤の仕方である。厚生労働省の調査(1999年)では,200床以上の病院では一般病棟全体の85.6%が3交代制勤務を行なっている。「3交代制」にいろいろ問題があることは承知の上で,にもかかわらず「3交代制」にしがみついている。
 一方,厚生労働省医療課の調査(定例報告)結果によれば,2002年7月時点(14年改定からわずか3か月後)で一般病棟入院基本料を算定している6033病院・71万床余の病床のうち,1万8819床(病床数に対し2.4%)が14年改定で新設されたばかりの「夜間勤務等看護加算1」(夜間の看護師が患者10対1以上)の区分を算定していた。さまざまな制約の中でも手厚い配置をしていた病院が,改定後短期間で算定に動いたことがうかがえる。
 交代制勤務は人員枠で影響されるから3交替しかない,夜勤加算をとるためには2交替だと難しいなど,いろいろと問題点や障害もあげられるが,そこは看護部の裁量部分でもある。規制人員内でもできることが大いにある。
 例えば,夜勤の仕方に関しても,日本の交替制勤務では逆周り(人のサーカディアンリズム・生体リズムに沿って起きて働く時間帯を,後方向にずらしていくシフト。例えば日勤-深夜)といわれる,疲労する夜勤の仕方が多い。これは人間が疲労しやすい交代制勤務の仕方と研究報告されている。
 諸外国では,夜勤の仕方に関して簡単な方法論がCDCやヨーロッパでのDirectiveで提示されている。日本でも規制の問題だけではなく,同時に,その規制内での方法論の改善の取り組みをしようという動向がある。人間の生体リズムを無視した非科学的な交代制勤務を改善し,適切な看護の労働環境を整備していくことから患者安全ははじまる。看護にとって重要なのは,「患者が必要とする時間帯にサービスが提供できる」,「看護師の生活との両立がしやすい」,「提供される看護サービスの質(密度)が確保される」という看護サービス提供体制構築だ。

規制と「看護の発言力」

 看護師は真面目であるから,与えられた状況でそれにあわせようと必死だ。「適応力」はシステム改善の障害となる場合がある。また,看護の「忍耐強さ」は「現実を受容」させる。業務改善はできているが,業務改革は難しい。「改善」の先に「改革」はない。与えられた規制という「枠」の中で我慢して自らを合わせていくことだけでなく,その枠内でどのような柔軟な対応としての工夫ができるか,さらには,「枠」を看護という専門職にあわせていくことも求められている。そのような価値観のパラダイムシフト,「概念枠の転換」が必要だ。看護の労働環境の改善は,まさに改革への強い意思と主体性によって初めて可能になるだろう。
 また,患者安全を保てる夜勤体制にするには,看護人員はもっと確保しなくてはいけない。日本看護協会では,「常時4対1」を11月28日に厚生労働省の医療課に「診療報酬改定に向けた重点要望書」として提案している。しかしながら,規制は到達目標ではなく,達成しないといけない最低基準でもある。その最低基準である看護の人員体制の規制が「拠りどころ」であるのも現実の看護での実態である。看護としての組織の「発言力」は「規制」だけで代替できるものではない,という認識も必要だろう。
 今年は「見ザル」「聞かザル」「言わザル」の申年だが,「見て」「聴いて」「話す」ということを積極的に行なう年ではないだろうか。そこから,看護としての政治力を発揮し,「患者安全を守るための看護労働環境」を整備していく必要がある。
 看護の労働環境は悪化している。不満だけなら誰でも言える。反省だけならサルでもできる。その不満や怒りを,確実に,政治的に,戦略的に実践するのは,看護の共同体として結束して,データを収集して,エビデンスを出していくことだろう。看護が好きだから,看護をもっと好きになるための方法を実行したい。日本看護協会の副会長として新年のはじめに,看護への大きな希望を持ちながら想う。


ナラティヴ・アプローチが問いかけるもの

野口裕二(東京学芸大学教授・社会学)


精神と技術の二元論

 臨床のさまざまな領域でナラティヴ・アプローチが注目されるようになり,昨年も多くの方々とこれについて話し合う機会があった。臨床的現実が「ナラティヴ(語り・物語)」によって支えられていること,患者さんの「病いの物語」に耳を傾けることがケアにとって重要な意味を持つこと,そして,臨床家もまた「臨床家の物語」を生きる存在であることが徐々に理解されるようになってきたわけだが,そのなかでひとつ気づいたことがある。それは,臨床の世界が,「精神論」と「技術論」の二元論に深く支配されており,そこからの脱出がなかなか難しいということである。
 臨床の場が専門的な「技術」によって支えられていることはもちろん事実である。したがって,臨床家が自らの専門性の根拠を「技術」に求めるのは当然のことである。一方,臨床の世界は単に「技術」のみで成り立っているわけではなく,臨床家の人柄や誠意や熱意といった「精神」的な部分がとても重要な役割を果たすこともまた事実である。したがって,臨床の世界は,「技術」と「精神」によって成り立っているといえるのだが,「精神」のほうは生まれもったもの,あるいは長年の間に培ってきたものなのでなかなか真似ができないし簡単には変えられない。だから,われわれの関心はもっぱらより学びやすい「技術」の方へと向かっていく。
 ナラティヴ・アプローチに関しても,それを「新種の技法」だと思って学ぼうとする人がいるが,この意味で無理もないことといえる。通常,「○○アプローチ」といえば新しい技法のことを指すからである。ところが,ナラティヴ・アプローチを学んでみると,何だかやけに哲学的で,とても「技法」と呼べるようなものではない。それどころか,「技法」ではないと自ら宣言さえしている。となると,今度は,ナラティヴ・アプローチは「精神論」なのだという理解になる。「技術でなければ精神,精神でなければ技術」という二元論が支配しているのである。

ナラティヴ・アプローチが提供する「視点」

 しかし,ナラティヴ・アプローチが主張するのはもちろんこのどちらでもない。それは,「姿勢」または「視点」というべきものである。患者さんに接する時の新たな「姿勢」,あるいは,病気や問題を見る時の新たな「視点」をそれは提案している。あるいは,「ものの見方」と言ってもよい。この「姿勢」や「視点」は,「技術」のように明快に伝えることはできないが,「精神」のように真似のできないものでもない。ちょうど,それらの中間にあるものといえる。だからこそ,「精神」と「技術」の二元論を超えた新しい臨床の可能性が見えてくる。精神論でもなく技術論でもないもの,ここにナラティヴ・アプローチの新しさと難しさがある。


今年もやるぞ!!オムツ減らしの取り組み

田中とも江(NPO法人「市民の立場からのオムツ減らし研究学会」理事長)


身体拘束廃止から高齢者の排泄問題へ

 私は,総婦長として勤めていた老人病院において,1986年から2002年の長年に渡り,身体拘束廃止に取り組んできた。身体拘束は高齢者の尊厳を奪い,身体的にも精神的にも高齢者を蝕むものとして,十分とはいえないまでも,今では多くの医療従事者・介護関係者によって認識されるようになった。そして,多くの施設で拘束廃止の取り組みがはじまり,それぞれ成果をあげてきている。
 こうして進めてきた身体拘束廃止への取り組みを改めて振り返ってみて,高齢者の排泄を快適にすることが身体拘束廃止と密接に関係していることに気づいた。そして,2002年のNPO法人「市民の立場からのオムツ減らし研究学会」発足に至ったのである。

感覚麻痺が引き起こす「オムツ漬け」の弊害

 高齢者の排泄ケアは,高齢者の生活ケアの重要な要素であるにもかかわらず,これまで介護現場でも医療現場でも,大きく取り上げてその質を問うことがタブー視され,置き去りにされてきた。いや,タブー視されてきたというより,自分たちが当たり前に行なっている排泄行動を,いったん施設に入所したり,寝たきりになるや否や,まるで別もののように扱うという,一種の感覚麻痺が起きていたのではないだろうか。
 その結果,現場では排泄に関して十分なアセスメントがないまま,失禁がある,ひとりでトイレに行けないなどの理由で安易にオムツがつけられ,「オムツ漬け」ともいえる状況が量産されてきた。
 オムツをつけられることが,どれほど高齢者の尊厳を傷つけるかは,自分の身に置き換えてみれば容易に想像がつくだろう。尊厳を傷つけられた高齢者はやがて諦め,生きる気力の喪失に繋がっていく。またオムツを着けることで高齢者自身の活動性が顕著に低下するばかりでなく,スタッフ側の意識も,トイレ誘導などを行なわないために寝かせきりにしがちになり,ADLの低下,さらに廃用性症候群の発生に繋がっていく。オムツの不適切な使用(オムツによるぐるぐる巻きなど)は高齢者の行動を妨げる身体拘束であり,それによって歩行のバランスが乱れることで,転倒などの事故の原因にもなる。
 また排泄物が身体に密着することによる皮膚障害や感染症の発生も見逃すことはできない。そして,その不快さが,いわゆる問題行動と呼ばれるものを惹起していることの何と多いことか。これは,排泄の快適化に取り組んでみて,改めて実感しているところである。さらに,当会では紙オムツの大量消費に伴う費用の増大,環境問題にも眼をむけている。このように不適切なオムツ使用がもたらす弊害は枚挙にいとまがないのである。

高齢者の快適な生活をめざして

 最後に,今後の当法人の役割について展望を述べさせていただきたいと思う。
 これまでも,排泄障害に関する取り組みは多く行なわれてきたが,いわゆる医学的診断や治療の対象とはならない,痴呆性高齢者の排泄ケアは,置き去りにされてきたと私は思っている。そうした人たちに必要なのは,診断や治療ではなく,看護者・介護者とのコミュニケーションから生まれる適切なアセスメントであり,その人の生活,人生観をも汲み取って行なう,本当の個別ケアである。私たちがめざすのは,そうした置き去りにされてきた人々が残り少ない人生を可能な限り快適に過ごすことができるケアを広げていくことである。
 現在,全国各地において,身体拘束を廃止した仲間たちが自主的に集まって,厚労省の一室をお借りして勉強会を開催している。彼らは,それぞれの現場で高齢者のケア向上に必死に取り組みながらも,日々「これでいいのだろうか」という疑問を感じている。そして「もっと高齢者の尊厳を守る排泄ケアを極めたい」という志を抱き,互いを刺激し合うことで,その意識は確実に向上してきている。
 ケアの改革は現場からはじまるものである。なぜなら,前述のように,そこで最も重要なのはコミュニケーションだからだ。排泄ケアが痴呆性高齢者の尊厳を守るカギになることを,高齢者を大切に思う人たちが集う民間の勉強会から,結果を出し,行政に訴えかけ,公的な施策に反映させていきたいと思っている。
 その1つとして,当会では現在,福島県の介護費用適正化特別対策事業「高齢者排泄自立支援事業――オムツ外しと排泄ケアの検討」を請け負い,排泄実態調査,ノム・ダス3(独自の排尿・飲水チェック表)の作成,スタッフの意識調査など,排泄ケアの適正化に取り組みはじめている。
 ゆっくりではあるが,高齢者の排泄ケアを見直す動きは確実に広がりを見せている。皆さんも,患者さん,利用者さんの,そして,ご自分の快適な老後の生活のために,いっしょに排泄ケア見直しに取り組んでいきましょう!!


当事者が開く可能性

向谷地生良(北海道医療大学助教授・看護福祉学部)


「旬」を迎えた当事者研究

 べてるの家を中心とする当事者活動の中で,今一番旬なのが「当事者研究」と「爆発救援隊」である。統合失調症などの症状を抱えた当事者たちが,自傷行為や暴力など自らの生きづらさの意味を「研究」し,生き方や暮らし方の提案をしている。また,家庭内暴力(以下,爆発)等が止まらなくて困った当事者たちがお互いの救援を目的に「爆発救援隊」を結成し,自分と仲間に対する危機介入の実践をはじめている。キャッチフレーズは「自分自身で,共に!」である。
 その活動は,関係者の関心を呼び,最近も千葉で開催されたSST(生活技能訓練)の学術集会に招かれ,発表とデモンストレーションをした。
 河崎寛さんは統合失調症を抱えながら爆発を止められず,繰り返される強制入院や増える一方の薬物に苦しんだ経験から,爆発のダイナミックなメカニズムを独特の切り口で解き明かし,回復には適切な医療と社会サービス,そして仲間と語ることの大切さと爆発のエネルギーの有効活用を説いた。林園子さんは,同じく統合失調症による幻聴や不安に基づき,何度も電話をかけたりする強迫的な確認行為に長年苦しみ,訴え時の注射とこれまた増加する一方の薬の重さに苦労した経験に基づき,仲間と共に研究した結果,強迫的な確認行為には「な-悩み」,「つ-疲れ」,「ひ-暇」,「さ-寂しさ」,「お-お腹の空き具合・お金」が絡んでいることを解明し,見かけの訴えに対処するのではなく,その背後にある現実の訴えに対処することの有効性を説明した。
 例として,友達に何度も相談の電話を掛けまくる強迫的な確認行為が起きた時に,セルフモニターを提案されて「お-お腹が空いている」状態に気づき,カップラーメンを食べたら落ち着いたということで「前の病院の先生は,昼夜問わず真剣に対応し,注射を打ち,いろいろと薬も調整してくれたのですが,今になって“実はお腹が空いていたんです”とは申し訳なくて言えません。最近は,ブルガリア・ヨーグルトと豚キムチ・チャーハンもよく効きます」と言って会場を沸かせた。

「患者」を演じ続ける「当事者」

 2人は,精神科の「患者」としては極めて対応が難しかった。止むことのない爆発や強迫的な行為に専門家が必死になって手を打とうとすればするほど,2人は「専門家の無力」を気遣い,「患者」を演じ続けることを止められないという悪循環に苦しんできたと言える。
 孤立感に苛まれている当事者にとっては,いかに過剰で場違いなケアであっても「人とのつながり」というか細い生命線の確保のためには専門家の関与のアリバイとなる「患者」というポジションを維持することに腐心し,「問題だらけの患者」を演じ,専門家に勧善懲悪の舞台の主役を提供し続ける。
 その点,浦河で2人が体験したことは,正反対のものだった。まず,河崎さんは医師から爆発に関しては,専門家も「無力」であることを告げられ,家族は問題の尻拭いを止め,苦労の主役の座を本人に明け渡すことを促された。そして,文句の1つも言いやすく,生きるという当たり前の現実をしっかりと悩めるようにと薬が十分の一に減った。林さんも,「注射がしてほしいだけだったら,前の病院と同じだ」と言われ注射が止まった。
 薬が減り,注射が止まった時,2人は嬉しかった半面,長い間,薬や注射に封じ込められてきた現実の生々しい悩みが次第に意識に表出し,不安や恐怖も増大した。そして,止むことを期待していた爆発や強迫行為が続発し絶望的な心境に陥った時,そこから,当事者研究がはじまった。

広がりを見せる当事者活動

 精神医療における当事者活動は,古くはA・A(匿名断酒会)をはじめとして精神医学のテーマの周辺と見なされた依存症の分野で活発化してきた。それを支えてきたのは,依存症を「治す」ことに対する治療者と当事者相互の「前向きな」無力感と敗北感だった。先の2人が本当の意味での回復に向けて踏み出す契機も「無力との出会い」だった。
 一方で統合失調症は,依存症とは違い,それこそ精神科医をはじめとする専門家が治療や援助の采配をふるうべき精神医学の本丸であり,当事者が影響力を及ぼすことなど想像もできないという空気が現場には蔓延している。
 しかし,確実に専門家が考えお膳立てする「幸せ」や「安心」の枠組みは崩れつつある。その象徴的な言葉が,同じく学術集会に参加した統合失調症の当事者である清水里香さんの発言であった。
 「私は,四六時中覗かれるという被害妄想によって7年間も引きこもりをしてきたのですが,最近ようやく仕事ができて,人前にも出られるようになり“やっと幸せをつかんだ”と実感した途端に,今度はこの幸せがいつかなくなるのではないかという不安に襲われたんです。すると,急に幻聴さんがやってきました。その時“ああ,大丈夫だ,自分はまだ幸せなんかじゃない。ちゃんと幻聴さんもあるし,病気のままだ”と実感し本当に安心できたんです」
 会場は,爆笑に包まれ,不思議な安堵感がみなぎっていた。それは,参加者に向けられた労いであり,癒しのメッセージでもあった。