医学界新聞

 

連載
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   第9回
   解剖実習とアメリカ人の身体観

  高垣 堅太郎
ジョージタウン大学スクール・オブ・メディスン MD/PhD課程2年

前回2556号

 臨床前の医学生の作文としては月並みではありますが,今回は解剖実習についてと,そこから発展してアメリカ人の身体観と医学のありようについて考えたいと思います。

解剖実習

 人体を総括的・体感的に知りたいと強く願ってメディカル・スクールに入学した私は,解剖実習を当初から心待ちにしていました。入学式の頃などはそのことばかり頭にあったのですが,いざはじまってみるとすぐに慣れてしまい,その意味では少々拍子抜けの観がありました。上野で展示されたプラスチネーション標本や,期待を胸に早々と買った写真図鑑の見すぎだったのかもしれません。
 解剖にあまり違和感がなかった一方で,バイパス手術や人工弁,ペースメーカー,人工レンズ,果ては陰茎補填器など,一般的に普及している人工臓器類の多さにはびっくりしました。医療が「部品」としての各臓器の完備をめざしているという印象すら受けます。
 解剖の対象を呼ぶ呼称についても印象的でした。「remains(遺体)」や「corpse(死体)」ならともかく,普段は「cadaver(屍骸)」,よくてもせいぜい「specimen(標本)」と呼びます。特にこの「cadaver」という言葉は,日常の場で使われるとしたら溺死体や道端にはねられた鹿の屍骸などといった,異臭を漂わせていて,蛆なども湧きかねないものを指します。そう考えると,日本で「ご遺体」と呼ぶのとは本質的な感覚の相違を浮き彫りにしているように思えてなりません。
 そして,献体という行為自体も,日米ではだいぶ違った捉えられ方をしているのではないかと思います。ジョージタウンはカトリック教の学校なので,遺族の方を招いてのミサ式がありましたが,それは,「慰霊ミサ」ではなく「感謝ミサ」でしたし,行為自体に対しても「尊い」に類する言葉ではなく,もっぱら「generous」などが当てられました。日本での経験がないうえ,漠然とした印象ではありますが,だいぶ感覚が異なるのではないでしょうか。

健康志向と現実の不健康

 アメリカ人の3人に1人は臨床的に肥満である,と言われます。一時そのことが気になって,町を歩く時に目算で数えてみましたが,ワシントンDCの町を歩く人も,おおよそそのくらいの割合で肥満です。
 一方,アメリカ社会の中には健康志向も根強く,いたるところにフィットネスクラブやジムがあり,朝晩町を歩くと,数多くのジョッギングの人とすれ違います。近所の,有機食品・健康志向のサプリメントの類を売るチェーンスーパーも,いつもにぎわっています。
 もちろん,アメリカという「社会」は,1つの社会であるかが時に疑わしいほど分極しており,それを「日本社会」というのと同じレベルで総括すると見当違いのもとです(本連載も話の都合上,比較的乱暴な一般化をしてきましたが)。それにしても,健康志向と不健康さは,実は同じ「社会」の通念から発していると思えるのです。この矛盾をうまく説明できずに困っていたのですが,解剖実習の頃,1つの答えに気がつきました。
 例えば先に述べた,フィットネスクラブやジョッギングなどというのは,生活の一部というよりは,独立の概念として,身体の「メンテナンス」というふうに捉えられる傾向があるのだと思います。フィットネスクラブに一生懸命通っている人に近所のスーパーまで歩いていこうという発想がなかったり,「ダイエット」食品とスナック菓子を平気で同じ買物籠に入れる類のことも,そう考えると説明がつくのではないでしょうか。そして「メンテナンス」を怠れば,「体脂肪率」や「血中コレステロール濃度」,「血圧値」などが悪化したことによって不健康になる,という訳です。

身体観と医学

 解剖をめぐる感覚にしても,日常の場でも,現代の米国では身体が自我とは独立の無機的な部品群として実感される傾向が強いように感じます。その結果医療に対する感覚も同様に異なるのでしょう。腎臓が「故障」したら取り替えればよい,顔にしわができたらフェイスリフト,腹が出はじめたら脂肪吸引手術や痩薬に頼ればよい,血中コレステロールが基準値より高くなったらスタチンを服用すればいい,成績が悪くなったら覚醒薬を飲めばいい,目の不具合には……。
 そして,米国中で解剖実習の廃止が検討され,コンピュータや模型,解剖済み標本などを用いた「実習」がこれにとってかわる前兆を見せていることも,生体を工学的・演繹的に捉えるこのような身体観と関連があるように思えてなりません。あるいはまた,マネジドケアについても,「誰が治療しても同じだ」という前提に立って,いわば治療をその都度消費される商品のように扱っていると考えれば,同じ文脈で捉えられるのかもしれません。
 一方で,こういった極端に概念化された身体観が,どこかでは本能的な人間性と矛盾をきたしているということも,また,事実のようです。Psychosocial medicineやCAMの重視は,そういった流れに逆らおうとするものとも捉えられます。しかし,小手先の医療面接術が果たして,「かかりつけの家庭医」を持つことを難しくしつつある医療制度の瓦解を補えるものか,あるいは東洋的な身体観に根差した代替療法をad hocな「治療法」として取り入れることが医療に全人的なintegrityを取り戻すことにつながるのか。根本的な問題を見過ごしてはいないか,気になるところではあります。