医学界新聞

 

おきざりにされた健康

第3回

世界の子どもの健康

神馬征峰
(東京大学大学院・医学系研究科 国際地域保健学教室 講師)


2556号よりつづく

山上の垂訓

 ジャン・バニエというキリスト教界の精神指導者をご存じでしょうか? 「ラルシュ」というコミュニティで知的ハンディのある子どもたちと共同生活をはじめた人です。日本にも静岡にその支部があります。日本を訪れ,何回か講演されたこともあります。
 バニエが「心の貧しい人々は幸いである……」で有名な,イエス・キリストの「山上の垂訓」について,こう語っています。「私たちはこのイエスの問いかけに簡単に耳を閉ざし,避けてしまうことがあります。なぜならこの声は,今の快適な生活から私たちを引きずり出し……より大きな真実に面と向かうことを私たちに迫るからです」。
 では,どうしたら,この問いかけに面と向かうことができるのでしょうか?
 バニエは,「自分の内にある痛みや苦悩の原点に触れてこそ,真に他者のことを理解できるようになります」と語ります。

死にゆくこどもたち

 世界の悲惨を耳にした時,私たちはあたかも「山上の垂訓」を聞いているかのような態度をとりがちです。「なぜならその姿は,今の快適な生活から私たちを引きずり出し……より大きな真実に向かうことを私たちに迫るからです」。
 そのような世界の悲惨の例として,子どもの人権はいつでもホットな話題です。世界会議も頻繁に開かれています。今年とくに注目に値したのは,2003年2月に開催された会議です。お金の出所はビル・ゲイツ財団,WHO,米国開発庁(USAID)。世界から小児保健の疫学専門家がイタリアに集まり,その成果は2003年の6月から7月にかけてランセット誌で,5回のシリーズとして公表されました。
 毎年,死にゆく子どもたちが1000万人以上。その3分の2は予防できるはずの死。今年もそれだけの子どもたちが死ぬことでしょう。その多くは途上国の子どもたちです。1980年代に流行した「子どものサバイバル」運動によって,世界の5歳未満児死亡率は,1980年には1000人出生あたり117人であったのが,1990年,93人にまで減りました。しかし,1990年代半ばから勢いが衰え,2000年は,目標の70人には及ばず83人でした。リーダーシップの低下,焦点の定まらない保健政策,人的,金銭的資源の低下,そしてこの問題に関する意識の低下などが,勢いの衰えた原因とされています。

幸せをもたらす保健政策

 私たちは,どうしたらこの悲惨な姿に面と向かうことができるのでしょうか?
 バニエが言うように,「自分の内にある痛みや苦悩の原点に触れ」,真に世界の子どもたちのことを理解したいものです。しかし,私たちはこの問題を1人ひとりの心の問題としてだけではなく,保健政策の問題としても取り組んでいく必要があります。
 ネパールで働いていた時,日本脳炎で子どもたちが多く死にゆく現場に行ったことがあります。1997年,ネパール極西部のある地域では住民の約30%が日本脳炎に罹患しました。5歳未満児の死亡率は,女の子が14.6%,男の子が6.9%でした。住民の怒りは爆発し,保健政策は厳しく批判されました。そしてようやくネパール保健省はこの問題に本格的に取り組むことになりました。米国や韓国の援助も入りました。2001年には,ランセット誌上で,中国が開発した安価な日本脳炎ワクチンが1回だけの投与で効果があることがネパールでも確認された,と報告されました。
 日本脳炎を重要課題としたネパールの保健政策,安価なワクチンの開発,政策に有益な研究,これらがそろって,ネパールの子どもたちの命や健康がおきざりにされないように機能しはじめています。
 今年もまたネパールでは日本脳炎の流行が報告されています。しかし,ワクチン接種がある程度なされるようになったので,以前みられたような爆発的な流行は抑えられています。健康的な保健政策は子どもたちに幸いをもたらすのです。