医学界新聞

 

10年に1度出るか出ないかの名著

古川壽亮・神庭重信編   『精神科診察診断学-エビデンスからナラティブへ』

中井久夫(神戸大学名誉教授)


 
B5・頁332 定価(本体6,800円+税)
医学書院,2003年


教科書では及び腰になりがちな主題を正面から取り上げる

 「診察診断学」とは診察の基本的態度からはじまり,診断に至る道筋を記すものである。ありそうでめったに出ない。EBMの診断理論を具体的に盛り込んだ教科書は世界で初めてだと編者はいう。全国を網羅せず,2つの大学精神科だけで討論を重ねて編んだというのもよい。開拓者精神を以って書くにはそうでなくてはならない。その証拠に,本書は従来型の教科書と違って歯切れがよい。建前の訓示や耳ざわりのよい言葉で誤魔化している箇所がない。逆に,患者に好意を持てない時にどうするか,興奮患者への対応,性の問題など,教科書では及び腰になりがちな主題を正面から取り上げている。誤診の心理がEBMへの重要な導入部をなしているのもよい。
 本書は,日常臨床の基礎的作法からはじまる。そして,それは本書全体に染み通っている。決してマニュアル作りを意図せず,先行世代の伝統を引き継ぎ,整理したもので,それに著者たちの創見を加え,臨床経験を経たものである。時に「初学者のためのお節介と思われる具体的指摘」を記したというが,これは編者たちが初心を忘れていないことを示している。そして,たしかワイツゼッカーが医学の伝統にはもっぱら口伝のみで伝えられてきた重要な事項があるという指摘をしていたが,それをできるだけ言葉にしようという努力がみられ,その結果,わが国の治療の現場にマッチし,かつ一般に良識が持つ「高度の平凡性」に達している。
 読みながら,あれもこれも,私が自分でも心がけ,また臨床教育の場でより若い世代に向かって語っていたことがあると思ったが,ああ,こんな大事なことを抜かしていたんだな,と自分で驚くことも少なくなかった。第I編は初学者からベテランまでが読んでそれぞれ得るところがある。
 「高度の平凡性」とは安易なものではない。本書が繰り返して述べていることの1つに,患者を呼ぶ際には,待合室に迎えに行くことの重要性がある。これを提唱したのは神田橋條治であり,私も及ばずながら心掛けてきたが,しかし,今も訪問先の診察の場でめったに見られず,スピーカーが響き渡っている。

EBMからNBMに至る道筋を示す

 ここに共に「診察診断学」を謳う2冊の本がある。第一は高久史麿監修,橋本信也・福井次矢編集『診察診断学』(医学書院刊,1998年)であり,第2が本書である。
 前書はphysical diagnosisの精神科を除く各科(よい言葉ではないが精神科では「一般科」という)にわたる良書である。これも名著であるが,手にとって眺めれば,両者の「風景」の違いは一目瞭然である。一般科の『診察診断学』にはスキルを要する手技の図がふんだんにある。『精神科診断学』にはほとんどない。精神科では熟練を要する複雑精妙な手技は目に見えない。目に見えないからには一層重視せねばならぬ。
 本書は,EBMがスキルを軽視しているのではないかという誤解を解くのに十分である。スキルの基本は編者自身が執筆している。これは,編者が何よりもまず臨床家であることを示している。
 一般科との違いは,以上に尽きない。なるほど,一般科用の『診察診断学』にも後半に図式や鑑別診断表のたぐいは登場するが,EBMにまで至っていない。
 本書では第II編から始まって随所に分類表,診断基準,フローチャートがちりばめられている。そして,これらを駆使しつつ,診察し診断し,EBMからNBMに至る道筋がしっかり書かれている。一般科の同僚に精神医学の理論性を示すに十分である。科学的かどうかは科学技術を駆使するかどうかではない。思考法,分析法,総合法がどうかである。これは医学が科学であるかどうかとは別個の問題である(医学はエランベルジェに言わせれば「科学プラス倫理」である。私見もあるが,ここは述べる場ではない)。

「古くから医師が無意識的に行なってきた営為を明示的に行なう」

 評者は1980年以前に自己の臨床を作ってしまった者であり,2000年には臨床実践の第一線から遠ざかっていた者である。そういう者の書評としてご理解いただきたい。40歳を過ぎて新しいパラダイムに乗り換えた者はいないというのが,科学史では法則のようなものだそうである。精神科医になった時,すでにDSMがあった世代とは同じ感覚を持てるといえばウソになる。
 さらに言えば,私より一世代上の人たちは,当時ハンセン病や結核を選んだ医師たちと同じく,「不治の病者の傍にいること」を選んだ人たちが多かった。これに対して,私前後の世代は何とか前に進もうとした。特に膨大な入院統合失調症患者をどう治療し,社会復帰させるのかが時代の課題であった。中には,精神科患者解放に身を投じた者もあり,精神疾患を否定する者もあり,さまざまな精神病理学的モデルによる理解,さまざまな方法による治療的接近を試みた者もあった(これらの土台に抗精神病薬の登場があったことは忘れてはなるまい)。
 私たちの世代からみれば,私たちが地上を徒歩で歩んでいたのに対して,EBMは人工衛星から見た写真のように見えがちである。しかし,果たしてそうか。こういう場合は教条主義的なEBM信奉者を想定して語りがちである。自戒しなければならない。
 EBMは私の世代とは出発点が違う。電算機が手元になかった時代の文献検索の困難さは,新幹線のなかった時代の旅行と同じく今では想像しにくいはずだ。EBMの基盤は「パソコンがあって当たり前な時代」の到来である。逆にそれがEBMを生む趨勢は避けがたい。私は手書きのグラフを使って経過を分析したが,今はアートとしか見られないであろう。
 EBMは実際には科学の常識に精神医学が近づいたということだろう。緒言に言う「古くから医師が無意識的に行なってきた営為を明示的に行なう」こと,スキルの科学化である。複雑な事象には操作的申し合わせと統計的分析の採用が避けられまい。それが診察の場でできるようになったということである。研究か臨床かは単純な二項対立ではなくなってくるはずだ。

広義のNBMへ

 さらに,1990年以後,科学最大の課題は脳とされ,集中的研究が行なわれつつある。2010年に予定されているDSM-Vは,操作主義的なものから「病態生理学的pathophysiological」なものに進みたいと,APAが2002年に出した「行動計画書Agenda」にある。Underlying mechanismsを取り上げるわけだ。DSM-Vが予期通りこのパラダイム変換をなしとげるかどうか,そうなれば精神医学はどう変わるであろうか。現在,フロイトをはじめ,力動精神医学者の直感が得た結果に生理学的な裏づけがあるという仕事が行なわれているようだ。この動きはアメリカ精神医学の原点である Adolf Meyerへの復帰にも見える。
 しかし,生理学的裏づけを得なくても,臨床における最終的なものは,個々の患者の持つ歴史性と独自性である。「病気を診ず,病人をみよ」とは一般科のほうの『診察診断学』にも書かれている。
 編者たちは,最終的にはすべては「患者のストーリーを読む」ことに収斂してゆくべきものであるという信条を持っていると記している。それは,今NBMという名を得ているが,しかし,広義のNBMでなければなるまい。もしそうなれば,ヒポクラテス以来の医学の伝統を引き継ぐものとなると思う。

臨床の王道を踏み外さないで前進する新しいパラダイム

 現在の科学的医学のパラダイムには,マネジドケアのような,足を靴に合わせるやり方に利用される弱みがある。擾乱(じょうらん)と自然治癒力と治療的接近と環境要因とが絡み合う経過は,そのような一律なものであるはずがない。市場の論理の餌食になってはならないのである。これを補うものは個々の症例に注がれる眼差であって,本書の「診察に学ぶ」などの囲み欄の延長上にある。この囲み欄は決して息抜きなどではないと私は思う。数量化しにくいものは存在しないわけでは決してない。新しいパラダイムが臨床の大道を踏み外さないで前進するという希望を本書から得たい。
 「エビデンスだけでは鈍い包丁である。EBMとはエビデンスと,医者の経験と,患者の価値観の3つを統合するための方法論であり,そしてその統合の究極目標は患者の価値観を実現すること,つまり患者のナラティブの中に一緒に入ってゆくことである」と古川教授は語る(私信)。
 本書はユニークであり,また10年に1度出るか出ないかの名著であると思う。