医学界新聞

 

連載(37)  微笑の国タイ……(19)

いまアジアでは-看護職がみたアジア

近藤麻里(兵庫県立看護大・国際地域看護)

E-mail:mari-k@dg7.so-net.ne.jp    


2520号よりつづく

【第37回】すべての人が対等であるために

 この連載のスタートは,タイトルにはアジアを銘打っていながらも,コソボや中南米,アフリカなど各地の話が入ることを編集担当者には許していただきました。そして,内容は極力個人の意見や感想を抑えて,体験したことを中心に書くという方針のもとで始まりました。
 今回は,再度あらためてわがままを通しまして,私の意見や考えを中心に書いてみようと思います。

感謝する側,される側

 外国で暮らしている時に,現地で援助活動や仕事をしている日本人から聞いたいくつかの言葉を紹介します。
 例えば,こういう言葉を耳にしたことがありました。
 「タイもそうだが,一般に途上国の人たちは,真面目に働きもせずに,私たちを批判ばかりする」「お金をもらっておいて,文句ばかり言っている」というように,“憤懣やる方ない”といった感じの意見です。
 一方,それとはまったく逆に,大変満足した様子で,「私たちが一生懸命やったプロジェクトは,現地でとても役立ったようで,いつも感謝されている」という言葉を聞くこともありました。
 私は,本当は「感謝されている」という当事者の言う言葉を信じたいとは思うのです。けれども,もし私がタイの,あるいは途上国で普通に生活している人間であったとしたら,自分と対等に文句の言い合える関係のほうを望むかもしれません。
 つまり「あんたたちが勝手に来て,やっているだけ」と言えるような関係です。まずは,そういう関係から始めることが,相互に「援助」には依存しない,通常の人間関係ではないのかなと思うのです。
 はたして,援助活動そのものが「感謝する側」と「感謝される側」に分かれていいものなのか。途上国で一旗あげようなどという気負いはないか。業績を作らないと帰国後のポジションが危ういなどと思っていないか。自分が中心となって活躍したいと思っていないか。しかも,感謝される側の人間として……。
 このようなことが,決してあってはならないと思い,いつも自分自身に向けて問いかけているのです。

善良な思い込み

 援助や仕事で途上国に出かける時,無意識のうちに私たちは「よいことをしている」と思い込んでいないでしょうか。
 そして,感謝はされても,まさか文句を言われるはずがないと思い込んではいないでしょうか。そう思い込んでしまうから,文句を言われてしまった時のショックは,どう表現すればよいかわからないほど大きくなるのです。
 残念ながら,外国での援助活動や短期調査などで,普通の人たちの生活感覚を無視して,強引に何かを進めようとしている例をいくつも見てしまいました。
 もちろん,それは日本人だけではありませんが,なにぶんにも当の本人は「よいことをしてあげている」と思い込んでいるのですから,強引なつもりはまったくありません。むしろ,本当に純粋だったりするのです。
 強引にやっていることを意識している人を批判すれば,その人は理解してくれますが,純粋な人には残念ながらまったく通じません。こういう話は,身近な自分の周りを見回してみても,いたるところにあることです。しかし,外国にまで行ってこういう状態では困ります。

人を大切に思うこと

 住民参加や,住民の主体的な活動へ向けての援助について,さまざまな方法や考え方があります。しかし,その前に「人」として,どれだけ相手を大切に思うことができるのか。やはり外国に出かける前に,「人間の尊厳」や「人権」について一度真剣に考えるべきだと思います。これらのことは,身近なテーマであるがゆえに,あまり深く議論した経験がないと思うのです。
 私もこの連載中に,さまざまな方々から記事についてのご意見をいただきました。そのすべての方から,人を大切に思う気持ちが伝わってきました。学生からのメールが多かったのですが,看護学生はもちろんのこと,あるキーワードからホームページにアクセスした,他分野の学生からのものもあり,幅広い方々が読んでくださっていることを知りました。
 そして,国際的な活動をしたいと考えている若い世代の層の厚さと,その意思の強さや真剣さを真摯に受けとめながら,将来へと繋がることを期待しているのです。