医学界新聞

 

〔連載〕How to make <看護版>

クリニカル・エビデンス

浦島充佳(東京慈恵会医科大学 臨床研究開発室)


(前回,2524号よりつづく

〔第23回〕水害から人々を守れ(2)

ハリケーン・ヒューゴ

 1989年9月17日から18日にかけて,「ハリケーン・ヒューゴ」はバージン諸島とプエリトリコを直撃し,およそ30憶ドルの被害を出しました。通過後,大西洋上に3日間留まり,さらに巨大化した後,9月22日サウスカロライナ州チャールストンを直撃したのです。
 ヒューゴは上陸後も勢力を200マイルに拡大し,ノースカロライナにまで被害を及ぼしました。被害総額は,およそ100億ドルと試算されています。この経験より,アメリカは多くのことを学びました。

バージン諸島とプエリトリコから学んだこと
 1989年9月9日,ハリケーン・ヒューゴは西アフリカ沿岸に端を発します。
 ヒューゴは大西洋を横断する間にその勢力を拡大し,風速74mphを超えるようになりました。さらに,バージン諸島をはじめとするカリブの島々に達する頃には,風速190mph,「サファシンプソンスケール」で最も強いカテゴリー5に分類されるまでに発達していました。中心部の気圧も918mbと記録的低さでした。プエリトリコ天気サービス局が,9月15日にハリケーンを確認し,16日には警報が発令されました。
 これに対して,市民防衛局は島の災害施設間委員会を発足させ,沿岸住民の避難誘導を開始しました。新聞,ラジオ,テレビニュースなどのマスメディアを通して,ヒューゴがいかに巨大な勢力を保ち接近しつつあるか,またそれに対する避難準備について市民に効果的に伝えられました。
 特に「Sea, Lake, and Overland Surges from Hurricanes(SLOSH)」モデルを用いて,避難の時間とルートを割り出しました。これは,市が住民避難の緊急時決断を下す過程で非常に有効です。
 ハリケーン・ヒューゴはプエリトリコやバージン諸島を襲ったストームの中で最も強力でしたが,ハリケーンの直接被害による死者はわずか5人で済みました。しかし,アメリカ赤十字の報告によると,溺水,感電により29人の死者が確認されています。
 暴風雨により多くの電柱が倒れ,電気や電話が使えなくなりました。このことにより,情報が遮断され,水を汲み出すポンプが使えなくなりました。電話も普及するまでに3-6か月を要しています。また,水の供給設備も,直接あるいは電気系の故障などにより間接的に被害を受けました。
 以上のエピソードは,SLOSHがいかに有効であったかをよく物語っています。これに加え,電気・通信系を地下に移すなど,水害に強い町の構造があれば,さらに被害は小さかったかもしれません。

DMATの活躍
 電気系の問題などにより,病院機能も麻痺状態に陥りました。
 これに対して,アメリカ公衆衛生局(USPHS)に属する「ディザスター・メディカル・アシスタント・チーム(DMAT)」の活躍が注目されました。
 「フェデラル・エマージェンシー・マネジメント・エージェンシー(FEMA)」が,ディザスター後の復興の援助を目的として,1979年に創られたのに対して,「ナショナル・ディザスター・エマージェンシー・プログラム(NDMS)」は,大きなディザスターの際,地域初期医療と住人の避難を援助する目的で1981年設立されました。NDMSはさらにDMATを設立し,有事の際に備えたのです。
 DMATは主に医師で構成され,ウェブ・ページでも願書を取り寄せることができます。「ディザスター発生時に,普段の仕事を休んで救援にかけつける」許しを予め上司からとっておきます。つまり,普段は勤務医であったり,自分の仕事を持っていて,ディザスター時にのみ緊急出動するのです。そして仕事の合間をぬって,救急活動の教育を受けるため講習会に参加します。
 DMATは常に100人ほどで構成されており,ディザスター発生後8時間以内に召集され,現地に物資や薬等を携え出発します。DMATの活躍が世界の注目を集めたのは,ハリケーン・ヒューゴの時からと言われています。

SLOSHモデル
 ハリケーンの強さの変化を予測できるモデルは,今のところありません。これらの変化を捉えることは,いつ,どこで最も強い被害が発生し得るかを予測する上で重要です。通常の風速のみでなく,表面風速のデータの重要性が,ヒューゴ以降強調されています。
 プエリトリコのダムでは電気系に問題を生じ,ダムが水を湛えているにもかかわらず,人々は9日間も水を供給されなかったのです。ハリケーンの被害を受けやすい地域は,補助発電システムを装備する必要があります。このダムの弱点はヒューゴの5年前から指摘されていました。
 ハリケーン・ヒューゴにおいて,SLOSHモデルは非常に効果的でしたが,避難場所での調理場や水の供給がうまくいかず,さらにスタッフの不足もあり,避難場所が時間に開いていなかったなどの問題がありました。また,学校を避難所として使用したため,学校再開に遅れを来たしました。
 つまり,SLOSHは非常に優れたシステムですが,まだ改善するべき点も多数あると言えます。しかし,上記のような改善点は政府の援助さえあれば簡単なことです。

サウスカロライナ
1989年9月19日から22日

 カリブを直撃した後,ハリケーン・ヒューゴは勢力を「スケール2」まで弱めました。
 9月18日,ヒューゴは突如フロリダからノースカロライナの方向に向きを変えました。19日,サウスカロライナ,チャールスタウンへの上陸の可能性が最も高いと判断し,朝6時にはフロリダ,フェルナンディア浜からノースカロライナ,ルックアウト岬まで警報を出し,サウスカロライナ政府はチャールスタウン住民に避難勧告を発令しました。そのため,避難勧告は「スケール3で上陸する」という設定のもとで行なわれました。
 しかし上陸10時間前,突如勢力を「スケール4」まで再び強めたのです。そのため,避難所をより内陸部に設定し直さざるを得ませんでした。実際のところ,公の避難所を使用したものはわずかで,収入の低い人々が中心でした。多くはモーテルや親戚,知人を頼って避難していきました。そのようなことはあったにせよ,全体として避難はきわめてスムースに行なわれました。波の高さは3-6メートルに及び,高さ約3メートルの岸は容易に波に飲まれました。特に小さな浜辺ほど,大きな影響を受けました。
 サウスカロライナでは,ハリケーン・ヒューゴによって27人に死がもたらされました。7人は風に関係するもので,6人は溺死,他の14人はハリケーンの後片づけ中に発生しています。カロライナでもカリブ同様,停電が大きな問題となりました。およそ150万人は,少なくとも2-3週間電気を使用することができなかったと言われています。停電は輸送,伝達,そして浄水,下水システムに影響し,さらに被害を大きくしています。電話は地下を用いていたため,カリブほど被害は大きくなく,およそ80%が使用できたと言われています。簡易汲み取りポンプを導入するまでは,下水は道などに溢れていました。サウスカロライナでは,4000-5000の建物がダメージを受けたと評価されています。ヒューゴ通過中の強い風により屋根が破壊され,通過に引き続いた雨によりビルはダメージを拡大しました。
 いずれにしても,的確な気象予防と組み合わせた避難により,死者の数を相当減らすことができるのは確かです。バングラディシュでこのようなシステムさえあれば,10万人を超えるような死者を出さずに済んだことでしょう。日本の経済力と科学技術をもってすれば,実に簡単なことです。日本はただ発展途上国にお金を投資するだけでなく,具体的な目標を定めて投資するべきでしょう。仮に,日本がバングラディシュの水害対策に費用と技術者を導入し,システムを作ったとします。そして,投資の効果は「明らかな水害被害の減少」をもって評価することができます。