医学界新聞

 

【シリーズ】

隣の研修医


余語久則氏(帝京大学溝口病院麻酔科研修医1年)

聞き手:小林美和子さん(筑波大学医学専門学群6年)


神父から医学生へ

小林 余語さんはもともと神父様で,実は,私が小さい頃に通っていた教会にいらしたのです。まさか,こういう形で再びお目にかかれるとは思っていませんでした。なぜ神父を,そしてその後,医師をめざされたのでしょうか?
余語 子どもの頃から行ってみたいと思っていた教会に,大学生の時に初めて行きました。すると,とてもいいところだったんですね。子どもの時に憧れた美しい世界そのものかというと,そんなことはなかったのですが,そこで働く神父っていい生き方じゃないかと思いました。これが神父になったきっかけです。めずらしいケースかもしれません。
 神父になってからはさまざまな信者さんとお話をしました。その中には,もちろん病気の方がいらっしゃるわけです。病気や,あるいはもう亡くなりそうだということで病院へ行ったり,お家へ行ったりしてお会いするのです。「一緒に祈りましょう」と言ってお話をすることはできました。しかし,死ぬということを受け入れることができたとしても,実はまだ残るつらさは痛みなんです。
 一般的に宗教は心の痛みに対応できなければいけません。また,「差別」や「貧困」などによる痛み,社会的な痛みをどう受け止めるか,ということについては勉強もしますし,例えばカトリック教会も問題を解決するためのさまざまな活動をしてきているわけです。しかし,身体の痛みはそこにはあまり出てきません。
 病気の方が,最期に死を受け入れることができたとしても,身体の痛みだけは,「先生,取ってください」と医師にお願いしている。本人が意識朦朧としていても,ご家族が,「先生,もう駄目だということはわかりましたが,痛みだけは取ってあげてください」と言われる。「それは医師に任せればいいじゃないか」というのは,もっともな意見だと思うのですが,僕は,その痛み,心と社会のあいだの身体というものに触れたい。人間とは何かという意味で,肉体そのものにも触れてみたいと考えました。

聞こえた「神の声」

小林 そういう思いが医学部を受験させたのでしょうか?
余語 はい,しかしそういう思いがあっても,実際に医者になるには,相当な受験勉強が必要だし,教会の理解が得られるかなどの問題もあり,想像してみるだけでした。ところが,ある時,朝日新聞に「温泉入試」という見出しで,国立大学が学士編入制度を始めているという記事を読んだのです。そこに書かれていたのは,「社会人経験者で,コミュニケーションがしっかりとれて」ということで,要するに,人の気持ちを理解しようとする姿勢があって,倫理観も使命感も高いような人がほしいというような趣旨のことが書かれていました。だから数学や英語の試験ではなくて,1泊2日の合宿で試験をやって,人間をよくみましょうという試験を行なうと書かれていました。
小林 合宿で試験をやったんですか。
余語 そう。それが温泉地だったんですね。草津セミナーハウスというところでやりました。これならチャンスがあるとピンとくると同時に,これは宗教的な問題ですが,僕に「声」が聞こえたんです。「受かるから行け」と……。実は,私は,おとなになってから教会へ行き洗礼を受けたので,しばらくは神様がいるかどうかは半信半疑で……,しかしその時,「やはり神様はいるんだ」という実感が湧いてきたんです。
 ですから,僕にとっては悩んでいた時に,ありがたい話がふって湧いたようにきて,しかも後ろから後押し,これは受けるしかないなと思ったわけです。そして受験結果はその「声」の通りだったわけです。

医学部の驚き

小林 医学生になっての印象はいかがでしたか?
余語 私が驚いたのは,医学生とはこんなに勉強するのか,ということです。いままでに文系と理系と両方の大学に行きました。医学生の皆さんは驚かれると思うのですが,たいていの大学は,試験の時にちょこっと準備していけばなんとか試験はパスできます。ところが,医学部はまったく違う。何度となく,「これはもう駄目だ,ついていけない。試験に通るのは無理だ」と思いました。その印象が最も強烈でしたね。
 また,これは地方の大学だからかもしれませんが,すごく協力関係があって,試験の時もそうですが,誰かが病気になったら食べ物を差し入れるとか,交通が不便なので足がないときには車を出すとか,いろいろなことでよく助け合っていて,そういうことは将来も役に立つだろうなと,つくづく思いました。
小林 すると,ポジティブな印象を受けたということですね。
余語 そうです。

人の痛みにかかわりたい

小林 現在は研修医として,厳しいトレーニングの日々を送られているわけですが,麻酔科を選ばれたのは,最初に話題になった身体の痛みとも関係してのことですか。
余語 はい。影響してます。科を選ぶ時にはいろいろ迷いました。外科とか,救急へ行きたいという気持ちもありましたし,いずれにしても,人間全体がわかり,痛みについて考えられる科に行きたいと思ったんです。そこで,人間全体という意味では,循環,呼吸,腎,電解質とか,身体全体のバランスを診る麻酔科は興味深かったという理由があります。そして現在,多くのところでペインクリニックが麻酔医に関係して存在しています。痛みにも触れられ,それを通していろいろな科と接することができるのではないかと思ったのです。
小林 臨床現場の実際はどうですか。理想と現実のギャップとか,神父を経てから働いていることが役立っていると現場で思うこととか,あると思うのですが。
余語 おそらく,若い人と比べれば患者さんと話すのは得意だろうと思います。ただ,僕はもう39歳になっていますから,いま20代の若い研修医が私の年になったときには,当然,同じかそれ以上のことができて不思議はないわけです。でも,まあ神父としても,老若男女,いろいろな職業,いろいろな立場におかれている人と会っていますから,その経験が役に立っているのは事実ですね。
 麻酔科というのは主治医ではないですから,継続して診ていくということがないですね。それから,看取るということも普通はありません。しかし,手術当日以外に,術前に少なくとも1回患者さんと会います。通常「術前ラウンド」といいます。それから「術後ラウンド」です。可能な限り,手術の日と次の日は行くようにしていますが,前日は特に重要です。患者さんの情報を集めて,手術できるか,できないかの判断を含めて,いろいろやることがあります。同時に,ちょっとした手術でも初めての手術という方もいますし,何回目であっても「命がけ」で来ている方もいます。「もう目が覚めないんじゃないか」「これが最後のご飯になるんじゃないか」,あるいは,人の親であれば「もうこの子と会えないんじゃないか」とか……。何かあれば当然恐いですしね。そういう状態の患者さんに,いかに少しでも気持ちを楽にしてもらえるかというのが,医療の技術とは違うかもしれませんが,僕にとっては経験を生かす場です。

心というハートと心臓というハート

余語 そして,実際の手術で,麻酔のかかった状態では,患者の状態は通常と大きく異なります。不整脈が起きたり,おしっこが出なくなったり,いろいろなことが起こる可能性がありますが,特に心臓に関してはかなり自由に麻酔科医がコントロールすることができます。血圧を変えたり,ハートレートを変えたり……。
 もし,神父が人の心というハートを――偉そうに言えば――握っているとしたら,麻酔科医は手術中の患者さんの心臓というハートを,直接手は出していませんが,物理的に扱って,手の内に握っているようなものです。麻酔科医は,術中死というのをいちばん嫌がりますが,いかに厳しい状況の患者さんを持ちこたえさせるか,あるいは治癒に向かって帰せるかというのが勝負どころですよね。そういう意味では,昔は心のハートを握り,今度は心臓としてのハートを手に握るような仕事かなあと,思っています。
小林 しかし,緊張感と隣り合わせですね。
余語 緊張感ありますね。上の先生がいないとまだ何もできない研修医ですが(笑)。
小林 ご自身でお選びになって医学生になって,医師の道を選んだことについて後悔されたり,医学部や医療に失望したりという経験は,いまのところないですか。
余語 教会のルールにより,私はもう神父をやめました。もともとは両立したいと思っていたので,それが叶わなかったことへの失意はありました。ただ,この道を目指してよかったと思っています。

患者さんの安心した顔を見たい

小林 将来の抱負といいますか,今後はこういうことを目指していきたいということはありますか。
余語 まずは,麻酔を,その前後を含めてきちっとできるようになることです。患者さんは,命がけで来ているわけです。外科の先生も,もちろん内科の先生もそうですが,われわれもある意味,命がけで応えるべきものだと思っています。麻酔科も,外科の先生に協力して,患者さんにとっていちばんいい状態をつくって,技術的にも応えるし,心の面でもサポートできるのではないかと思います。
 悩みや心配事のすべては無理ですが,なるべく聞いたり,時には笑わすなり,励ますなり,慰めるなり。とにかく,手術をされる方,された方にはなるべくお会いしたほうがいいわけです。そのことにより少しでも安心していただくことができるかもしれない。そして,手術して帰った後で,「ああ,先生の言ったとおりだった」と思ってもらえればいい。いつ何をされたかということは,麻酔のかかっている患者さんにはまったくわからないですが,後で,「落ち着いて受けられました」と言うことばを聞けたら……,患者さんの安心した顔を見られたら……,そう思います。
 手術中の麻酔に起因する痛みというものもありまして,例えば脊椎麻酔などは痛かったりしますから,「痛みはぜんぜんなかった」と言われると本当にうれしいですね。

人生を振り返る時に

余語 そして,いろいろな科の,いろいろな手術や,合併症などを診ながら,なるべく広く勉強して,年を取ってきた頃に,いわゆる地域医療か,ホスピス,ターミナルケア,緩和医療といったところで,また神父としてやってきたものを生かすようになれれば,と思っています。ゆっくりと患者さんやご家族と向かい合って,全人的な医療にかかわっていきたいです。
 人間は必ず,自分の人生を振り返る時がきます。例えば死を意識した時,あるいは,ある年齢に達した時などは,しばしば振り返ることが増えてきます。若い時は,前へ,前へ進もうとしますが……。また,病気の方は当然,自分は駄目じゃないかと思った時や,年を取って弱ってきた時にはそれを思うことでしょう。
 そこで,私もある程度の年齢になったら,そのような方たちが,いいこと悪いこと,いろいろあったけれども,トータルで考えれば生きてきてよかったと思えるようなお手伝いをしたいなと思うのです。これは,もちろん医者だけの役割だとは思いませんが,自分自身も,ある程度の年齢になった頃に,自分が蓄積してきたあらゆる経験を活かして,患者さんと接する中でやりたいことです。そして,私自身も,ある一定の年齢になった時に振り返って「いい人生だった」と思えるように頑張っていきたいと思います。
小林 ありがとうございました。




余語久則氏
1963年生まれ。85年東大農学部卒,89年上智大神学部神学科卒,91年同修士課程修了。同年,6年間の研修と神学部での勉強を終えてカトリック司祭に。千葉の教会,東京の学生センターで働く合間に,開発・援助や交流,NGOの活動で約50か国に行くチャンスを得た。98年群馬大医学部学士編入,2002年同大卒。同年5月より帝京大溝口病院麻酔科で研修開始。現在,外科ローテ中で,エンドステージの患者さんを前に,「命とは」「医療とは何なのか」を悩む。





小林美和子さん
筑波大学医学専門学群6年。多様な価値観との出会いに魅せられ,第51回日米学生会議,第14回東アジア医学生会議,第9回日米保健医療シンポジウムなど,医学内外の国際会議の実行委員を務める。トルコの震災復興ボランティアプログラムに参加したことも。華道師範