医学界新聞

 

連載(36)  微笑の国タイ……(18)

いまアジアでは-看護職がみたアジア

近藤麻里(兵庫県立看護大・国際地域看護)

E-mail:mari-k@dg7.so-net.ne.jp    


2515号よりつづく

【第36回】「日本の常識」が通用しない土地で

人としての生き方

 2003年の新年を迎えて,私は1つの決心をしました。それは,これからは背中に背負った「わが国ニッポン」というリュックを降ろして,1人の人間として世界を眺めていこうというものです。1人ひとりの真っ白な気持ちを持ち寄り,新しいものを一緒に作っていこうと努力することが,現代のグローバルな社会で生きていくための知恵なのかもしれないと思うからです。
 今,世界で起きている経済格差と貧困,紛争と難民問題などは,国際政治や経済などの専門家によって語られ,数字や難解な説明により,私たちにはとても遠い国の出来事のように感じてしまいます。しかし,そこで暮らしているのは「人」であり,人々は当たり前と感じていた日常生活が突然変化したり,命や健康を脅かされたりしながらも,お互いに助け合って生きていました。このような最低限の生活すら保障されない環境の中においても,家族や友人,近所の知っている人たちを大切にして生きている姿を見て,私は「人」として,自分の生き方を問い直す機会をたくさんもらっていたのです。

バンコクの少女たちにみる「助けあい」

 今から15年ほど前のバンコクでのこと,毎夜チャイナタウンの近くを縄張りに,ゴザを敷いた可動式の店ながら,ソムタム(青パパイアのサラダ)と赤酒を天秤棒からぶら下げて商売をしている,タイの東北イサーン出身の中学生くらいの年齢の少女たちがいました。その数は100名を超えます。週に1回くらいの割合で,警察官が路上での店開きを取り締まりに来ますが,ここにいる少女たちは,目ざとく警察官を見つけると,交差点の信号が変わるまでにぞろぞろと逃げるのです。しかし大集団ですから,絶対に見つかっているはずなのですが,そこは「タイ」というお国柄,うやむやにしつつ取り締まっているという仕掛けでした。
 彼女たちは,そのほとんどが小学校や中学校を卒業してすぐにバンコクに出稼ぎに来ている少女です。そして,田舎には両親と幼い兄弟姉妹がいて,その生活費をすべて支えるという一家の大黒柱でもあるのです。悪いブローカーにだまされることなく,バンコクでこういった生活ができるのは,決して彼女たちの運がよいからではありません。強い絆で結ばれた地元の少女たちのネットワークを利用して助け合って商売をしているからでした。彼女らは,出身村ごとに小さなグループを作り,10代半ばの少女たちが場所取りなども仕切り,見事な組織力を持って商売をしていました。しかし,今ではバンコクの町の風景が変わり,そのような集団を見かけることはなくなりました。
 当時の私には,このような親や家族への献身的な出稼ぎ労働がとても犠牲的に見えたのです。しかし,意外にも彼女たちはケロリとしており,中学生くらいの女の子たちが,「家を支えるのは当たり前」と思っていることに驚きました。よく聞いてみると,そこの村では,普通は末っ子である娘が家を継ぐと言うのです。その理由を問うと,「女のほうが家族や親の面倒をよく見るし,末っ子が最後まで親と一緒にいるからよ」という答えが返ってきました。そして,幼い頃から知っている近所の人たちをも,自分の家族のように大切に思っているのでした。田舎で暮らしていても,バンコクに出稼ぎに来ていても,そこにある「助け合う」という強い絆は変わらないのです。

心の中の国境線

 「長男が家を継ぐ」という一昔前の日本の常識が通用しない場所が,世界の各地にあることは,私にとって大きな驚きでした。しかし,それ以上に,日本の常識に縛られていた自分の気持ちがふっと楽になったのです。「人が人を大切にする」「助け合う」ということは,結局どこに行っても同じだったからです。
 地球上にある国境線は,私が勝手に引いたわけではありません。でも,知らず知らず平面の世界地図を眺めているうちに,私の心の中にも線が引かれていたのかもしれないのです。私は,日本という国境線の中で平和に暮らしているから安心であるのだと……。もう一度,自分が信じてきた常識を疑ってみること,そして,1人の人を大切にすることからすべてが始まるのだということを考えていきたいと思うのです。