医学界新聞

 

新春随想
2003


「糖尿病診療マスター」創刊記念の新春を迎える

内潟安子(東女医大糖尿病センター助教授)




 糖尿病という分野は,以前は人気のなかった分野である。内科といえば,循環器,消化器が専門分野の大御所であろう。心カテや胃カメラ,その他諸々の造影検査やCT検査を縦横無尽に操作することに生き甲斐を感じて,医学部を卒業すると多くはその方面に進む。

 「なに? 糖尿病を専門にしたい?,糖尿病は血糖を下げるだけではないか,糖尿病は男子が一生かけてやる分野か?」と,言われたことがあった。しかし,いまや血糖を下げるだけではすまない病気になった。糖尿病から新たに失明する人数,糖尿病から新たに透析に入る人数,いずれも新規失明者や新規透析者の第1位を占める。中途半端な糖尿病治療や対策は,さらにこの人数を増加させることは明らかであろう。糖尿病から失明する,糖尿病から透析治療になるのは,過去10年から20年のわれわれの糖尿病治療あるいは糖尿病予防対策がうまくいっていなかったことの証しである。
 糖尿病になるには生活習慣が悪いからで,しようがない? 生活習慣が悪いというのなら,日本人全員の生活習慣が悪くなったのであり,地球に住む人間全体の生活が変わってきたのであり,糖尿病になった患者だけの生活習慣の問題ではないのである。
 さらに,もう1つ,人類の発展に大きく寄与してきたのは,血糖値を上昇させる力の強い人間であったであろうことだ。食物のわずかな飢餓に飢えていた人類の歴史の黎明期から今日まで,人類の発展に寄与してきたのは,わずかな食物摂取でもたくさんのエネルギーを出すことができ,子孫を増やすことができる遺伝子を持った者でなかったか。糖尿病教室で患者さんに,「みなさんの体を糖尿病にさせた遺伝子が存在したおかげで,人類は飢餓の中から繁栄してきたとも言えます。さあ,がんばりましょう」とお話する。患者さんのなんとなく下を向いていた顔が上がり,元気がみなぎってくる感じを受ける。
 糖尿病はぜいたく病ではない。患者さんには,糖尿病を持った自分にまずプライドを持ってもらおう。糖尿病を持った自分をさげすまないようメンタルを強化する。糖尿病の治療はここから始まるのだ。自己管理能力が十分に必要とされる糖尿病の治療は,患者さんの自分の糖尿病にしっかりと対峙する気持ちから出発する。この上に食事療法や運動療法,薬物療法がのっかってくる。底辺を支える気持ちがしっかりしていれば,当然3本の糖尿病療法は最大の効果を発揮する。
 「糖尿病を専攻したいって?」,「糖尿病の診療をもっと勉強したいって?」。それはいい。糖尿病こそが人間丸ごとを包括して診療する病気なのである。毎日の生活の中で糖尿病とどのように2人3脚でやっていくかを,人類の歴史をバックに患者さんも治療者となって考えていく病気なのである。ぜひ,糖尿病と奮戦しよう。
 血糖,血圧,体重,肥満度,多くの数字が糖尿病診療では飛び交うことだろう。しかし,けっして,「糖尿病のコントロール=患者さんの能力」と考えてはいけない。これが糖尿病診療の最低限のポイントである。
 さあ,『糖尿病診療マスター』が創刊された。糖尿病の患者さんを丸ごと包括して診療していくコツをここで学ぼう。一筋縄でいかない人間だからこそ,糖尿病の実地診療は一筋縄でいかない。医療者と患者が一緒に治療に立ち向かう糖尿病診療をめざしたい。


僧医をめざし新たな精進を

対本宗訓(僧侶・帝京大学医学部3年生)


近頃の坊さんは……

 近頃の坊さんはいっこうに元気がない。もっぱら伽藍の中へ引きこもっているように見受けられる。だがちょっと歴史を振り返ってみればわかるように,ほんらい坊さんという存在は世の中をリードするエネルギーにあふれていた。心や魂の救済者であり,社会活動のリーダーであり,そして教育者や芸術家でもあった。政教分離というキーワードをふりかざした批判的な論調も出てはこようが,過去のどの時代を見ても,その社会にふさわしい旺盛な宗教活動がなされていたことは事実である。
 ひるがえってこの現代,「宗教界にスターがいない」とよく言われる。スターという言葉には正直ややひっかかりを覚えるが,ジャーナリズムや出版業界からの発言であることを割り引いたとすれば,僧職にある私自身そのとおりであると思っている。なぜか今現在,宗門の枠を超えて広くメッセージを発信できる高僧や名僧がいなくなってしまった。「あの小説家で有名な尼さんがいるじゃないですか」といった声をたまに聞いたりすると,なるほどそういう時代なのかなと考え込んだりもする。

宗教者は人生を語っているか

 それはそうとして,ここで私が言いたいのは,従来なら坊さんが説いていたことを,今は坊さんではなく他の分野の人たちが説いているということだ。具体的な例をあげるとすれば,今日における医療界のスターともいうべき日野原老医師はその典型だろう。専門の医学の分野にとどまらず,そこから発して人生いかに生くべきかをわかりやすい言葉で諄々と語るその一言半句に,多くの人々は大いなる頷きとともに耳を傾けるのである。
 どの道にかぎらず,老熟した人生の達人が伝える教えというものは,表現は違っても何かしら人の心を打って通底するものがあるように思う。それが肝心の宗教者の口から聞こえてこないということは,さていったいどうしたことなのだろう。ただ1つだけ指摘するならば,宗教者が本来的にかかわらなければならないはずの生老病死の現実に,ほとんどの坊さんたちは向き合っていないということだ。

生老病死と深く関わる

 今や生・老・病・死のいずれに対しても,最も深いかかわりをもっているのは,宗教者ではなく,医師をはじめとする医療関係者なのである。青年僧研修会の講師として近年いちばん人気の高いのが医師と生命科学者であることは,現代の宗教者に何が欠けており,彼らが何を希求しているかを端的に示している。また逆に,医療関係者が生老病死の問題について抱えている苦悩を,心のどこかで敏感に察知しているのも坊さんたちなのである。
 私が四半世紀にわたる宗門内でのキャリアを擲ってまで,なぜに医学を学び始めたのか,それは拙著『禅僧が医師をめざす理由』(春秋社)にあらまし綴ったとおりである。宗教者のはたらきの場は生老病死の現場をおいて他にはない。その方法論として突き詰めた結果が,私にとっては医学医療の修得実践であったのだ。そこを私は「僧医」と表現した。現代医学を修め,医師として臨床経験を積んだ僧の謂である。この僧医が果たしてどんなはたらきを示せるかは将来の課題となるだろう。だからこそ今は一医学生に徹して,ただ孜々として学ばせていただくのみである。
 とはいうものの,生活維持と学業の両立という試練を背負っているために当然ながら制約もまた多い。一度でもいいから若い学生さんたちのように,自分の時間をフルに使って勉強に打ち込んでみたいものだと羨ましく思うこともあるが,私の場合はむしろ高く身を欹てるよりも着実に歩を進めることをよしとしたい。
 かつて宮澤賢治が記して人口に膾炙する詩の中にこうある。
 「南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ」

 古来,菩薩の布施とは無畏を施すこととされる。生老病死する己がいのちをそのままに受け容れて安心へと誘うことである。私も終始この〈施無畏の願一点〉を胸に,僧医をめざして新たなる精進を重ねてゆく覚悟である。


日本に導入したいアメリカの医師教育制度と導入したくない医療制度

松下 明(奈義ファミリークリニック所長)




 医学部卒業後,家庭医をめざして川崎医大総合診療部で5年2か月卒後研修をし,ある程度自信がついたところでアメリカの家庭医研修を3年受けて帰国しました。現在は,人口約7千人の町で家庭医として診療し,当初目標とした医師像に近づきつつあります。
 3年間のアメリカでの研修医生活を通して得た知識・技能は現在も生きていますが,もっとも驚いたのはそのシステムの違いでした。

日本に導入したいアメリカの医師教育制度

 私が日本に導入したいと感じたアメリカの医師教育制度は,以下の3点です:
1)卒前教育=実地訓練
2)プライマリ・ケアを担う専門家の養成
3)行動科学の教育

 医学部卒業と同時に日本の研修医2年目以上の知識と技能を持つアメリカのシステムは,恐ろしいほどに効率的です。基礎医学と臨床医学の基本(医療面接と身体診察法)を学ぶや否や,一般病院へ学生がすぐに割り当てられるやり方でした。卒後3年目の研修医を筆頭に,2年目・1年目研修医に医学生もチームとして加わり患者の診療に当たります。新しい入院患者は,卒後1年目の研修医と医学生の担当で,カルテに記載し検査や治療の指示も研修医の確認を受けて医学生が行なっていました。卒前医学教育が,実地訓練(日本の研修医レベル)として機能しているのです。
 もう1つ感動したのは,プライマリ・ケアを担う専門家(家庭医)の教育システムです。2004(平成16)年より日本で予定されている臨床研修必修化に伴い「プライマリ・ケア」能力が注目されていますが,ここで用いられているプライマリ・ケアという用語は,「すべての医師が,習得すべき基本的臨床能力」のことです。本来プライマリ・ケアには,さまざまな意味が含まれますが,臨床研修という意味では,2つの側面が含まれます。つまり(1)初期研修医に必要な,全科の医師に身につけてほしいレベルのプライマリ・ケアと,(2)将来地域医療の現場で自分の専門として行なうレベルのプライマリ・ケアです。日本では,この両者を混同して用いられる傾向があり,「プライマリ・ケアの専門医(家庭医)」という視点は,現時点では少数意見となっています。現在,日本家庭医療学会や日本プライマリ・ケア学会が,中心となってその専門性に必要な研修内容(卒後3-5年目)を検討中ですが,アメリカの家庭医療研修(3年間)はまさにこの部分の研修でした。その内容は,1か月単位での全科にまたがるローテーションと家庭医療学センターでの継続的な外来研修でした。整形外科・皮膚科・眼科・耳鼻科などの研修は開業医のもとで行なわれ,家庭医療研修医が先に病歴・身体所見をとった後,専門医(開業医)が一緒に診察し自分の診断を確認するという作業が繰り返されました。それに加えて1か月間に読むべき課題が与えられ,1か月ごとに試験と指導医からの評価が行なわれるシステムでした。3年後には専門医試験が課せられ,合格すると6年ごとに再試験を受ける仕組みになっています。
 また,プライマリ・ケア専門医(家庭医)として心のケアができることが重要と位置づけられ,「行動科学者」と呼ばれる臨床心理の専門家が,家庭医療研修医を教えていました。実際の診療をビデオに撮ったり,カウンセリングをスーパーバイズしてもらったりすると同時に,心理面のケアに必要な図書を割りあてられ,内容を討論するというものでした。このような研修によって,すべての患者に対して心のケア(うつ状態・不安状態などの感情面の対応や行動変容のサポートなど)を行なえる家庭医ができ上がるのです。
 彼らは,3年間の研修後には自信を持って家庭医として開業できる実力を備えることができるのです。

日本に導入したくないアメリカの医療制度

 逆に日本に導入したくないアメリカの医療制度を見ることもできました。以下の3 点です:
1)マネージド・ケアの欠点部分
2)高すぎる入院費・検査代
3)医療保険の高額化と無保険者の増加

 アメリカの保険医療制度には,マネージド・ケアが導入されています。これは,検診などの予防医学活動と一般診療を包括化した医療保険ですが,医療費削減のためにプライマリ・ケア医が利用されている側面があります。プライマリ・ケア医より診療報酬の高い専門医へ患者が直接アクセスできず,プライマリ・ケア医で治療できないケースのみ紹介されます。高い診療能力を持ったプライマリ・ケア医にとってこれは可能ですが,患者サイドの希望を無視した形で行なわれることがしばしば見られました。ゲート・キーパーとしての役割が大きくなりすぎると,医師患者間の信頼関係にひずみが生じてきます。日本のフリーアクセスには患者優位の原則があり,存続させていくべきものと私は思います。また,アメリカの医療費は日本の比ではありません。医師の診療報酬も高いのですが,検査代(MRI7-10万円)・入院代(ホテル以上)が高すぎる仕組みです。この高い医療費をまかなうために個々で加入する医療保険料も高額となり,保険に入れない無保険者が4000万人もいるという現状です。
 日本の国民皆保険制度は非常に優れたものであり,今後これを継続していくためには国民の自己負担をこれ以上増やすことなく,医療費を抑える必要があります。診療内容の質を高め,よりコスト意識に優れたプライマリ・ケアを提供するには,「将来プライマリ・ケアを専門とする医師のための研修」が日本にも必要と私は考えます。
 現在の小手先だけの医療改革ではなく,将来を見据えたプライマリ・ケア専門医(家庭医)教育を国が本気になって取り組む時期にきていると思います。


HIV/AIDSが教えてくれたもの

木島知草(「がらくた座」一人人形劇主宰)




 「私がHIVに感染したらどう生きていけるのか,もしAIDSを発症したら誰が私を看てくれるのか……」私は12年間,全国の教育,医療の場に「語り部」として伝え歩き,いつも自らに,そして講演を聴く目の前の人々にこの言葉を繰り返し問いかけている。
 1990年,私は,AIDSに倒れた人の思い出を追悼・記録した布,「メモリアルキルト」に出会った。AIDSで亡くなった人を忘れたくない,と家族や恋人や友人が遺品を使って一針一針心を込めて縫い上げた1畳大のキルトに心を揺さぶられ,死者からの強いメッセージを感じた。「目をそむけないで,私たちの死を無駄にしないで……」AIDSで亡くなった1人ひとりの性や人生や歴史が,あるがままに表現されていた。感染原因も国籍も大人も赤ん坊も,何も分けへだてせず,美しくあたたかな布に「生命の尊厳」「人権」そのものを感じ,私の中にある差別感に気づかされたのだ。
 人は病者となった時,病気そのものの苦しみだけでも重荷を背負う。そのうえさらに差別が重なるとしたら,それは社会的死をつきつけられるようなものだ。病気になりたくてなった人はいない。無知無防備なまま,情報の不足や予防のし切れぬ問題を抱え,感染に至っているのだ。病気に対して倫理観を持ちこんで,人が人を裁いたり,生きる道を奪ったり,治療が安心して受けられなかったりすれば,よりいっそう感染は潜伏し,広がりつづけるだろう。ウイルスは人を差別しない。人が人を勝手に差別し,本当の情報が伝えられていないのだ。検査を受けなければ自覚できぬ病気,誰もが経験するであろう性行為による感染症,輸血や母子感染という生命そのものにかかわる病気として,子どもたち,若者,母親たちにとっても重要で身近な病気として伝えなければならない。
 「性についてタブー視せず,もっと深くコミュニケーションをとらなくては」,「パートナーと,互いを守りあうための行動を」,「陽性者は,コンドームを正しく使うことで愛する人にHIVを伝播させることなく性行為はできる」,「出産を望むなら医療者と相談し,母子感染を防ぐこともできる」,「薬を飲みつづける忍耐力は必要だが,仕事をつづけながら治療を受け,家族と支え合って長く生き抜ける慢性疾患になりつつある」はずなのに……。確かな情報が伝わらず,HIV/AIDSが人間関係の壁となったりしていないだろうか。1人ひとりが自らの胸に問ってほしい。
 医療の場に出向いて語る時,「感染原因によって差別のないように,横たわっている人が自分の家族だったら……と想像して治療してほしい」と伝える。全国の学校を巡り,子どもたちにも体当たりで伝える。「自分の身に起こることとして,よく知って」と。幼い時からわかりやすく,生命を守り合うための教育として,具体的に性教育を取り入れた人形劇で伝えている。親や教師にも取り組んでほしいと願っている。
 自分を守り,愛する人を守り,感染者と支え合い生きる力。知識は力だが,自らの身と心を通してこそ本物の行動に結びつく。
 HIV/AIDSは,男と女,男と男,女と女,家族恋人同士,学校,職場,医療,社会,世界という大きな視野にまで,「人間が人間を愛する」とはどのようなことなのか?その本質を問いかけ,見つめなおすテーマだ。病気を背負いながらも自分らしく生き,多くのことを教えてくれた友人たち(AIDSで亡くなった人を何人も見送ってきた)が,私の背中を押してくれる。「伝えつづけて……」と。そして私は問いかけ続ける。「もしあなたがHIV/AIDS患者なら,どう生きていくの?」と。