医学界新聞

 

「世界に誇る癌病理学者」

吉田富三 生誕100年を記念して

過渡期の指導原理と新時代の形成力を求めて

樋野興夫(癌研究会癌研究所・実験病理部部長)


癌発生観-学歴から学問歴へ

 2002年は,「病理学の父」ウィルヒョウ(Rudolf Virchow:1821-1902)の没後100年であった。ウィルヒョウは,癌の刺激説を提唱した。「日本の病理学の父」山極勝三郎(1863-1930)がウィルヒョウの下に留学し,のちに刺激説にのっとりウサギの耳にコールタールを「塗り」世界で初めて扁平上皮癌を作ることに成功した(1915年)。その後,1932年,オルトアミノアゾトルオールをラットに「食べ」させ,世界で初めて内臓癌(肝癌)を作った佐々木隆興(1878-1966),吉田富三(1903-1973)。
 このように,日本は世界に誇る化学発癌の創始国である。20世紀はまさに「癌を作る」時代であった。これらの起源は,1755年,イギリスの外科医Pottによる煙突掃除夫の陰嚢がんの報告にはじまり(職業癌),ウィルヒョウの刺激説に導かれた「学問歴」によるものである。

癌性化境遇-テーラーメイド医療の原点

 癌の本態解明に道を切り開いた日本が誇る癌病理学者で,癌研の所長でもあった吉田富三は,癌の「個性と多様性」を説き,かつ,『癌細胞には,性格が不変なものと変わってしまうものがある』,『癌細胞に共通なあるいは最も本質的な特徴を見出すことが大切である』と述べている。
 「病気は可能な限り一般化して理解し,把握しなければならないが,患者は可能な限り個々別々に治療しなければならない」(吉田富三の恩師,佐々木隆興の教え)。まさにテーラーメイド医療の原点がここにある。
 複雑系の発癌においてこそ,「過渡期の指導原理と新時代の形成力」を求めて,世界に誇る,日本の癌病理学者の吉田富三生誕100年(2003年)を記念し「温故創新」として「大観し,要約して,真理のある方向を示し,混沌の中に一道の正路を見出す」ことは,タイムリーな時代の要請と考える。

吉田富三-癌哲学者

 吉田富三は,世界ではじめて化学物質によって内臓癌を人工的に作ることに成功し,その後も「吉田肉腫」の発見を成し遂げた,世界的病理学者である。
 吉田富三の主な業績として,恩師の佐々木隆興博士(佐々木研究所)の指導を受け,1932年,化学物質(アゾ化合物)の経口投与によるラットの肝癌発生に成功。この研究は後に発癌性化学物質究明の糸口となる。その後,吉田富三は,長崎医科大学に赴任し,第2次世界大戦という困難な時代の中,発癌実験中のラットの腹水中に,浮遊する癌細胞「吉田肉腫」を発見することとなった(1943年)。
 癌細胞研究に生涯をささげ,「癌は1つの細胞からでも再発する」「癌細胞には個性がある」「癌は全身病である」と癌の本態を明らかにし,「癌細胞生物学」という新たな学問を誕生させ,さらに癌化学療法への道を開いた功績は計り知れない。
 さらに癌研究のみにとどまらず,医療制度の改革や,戦後の国語政策への提言など,幅広い活動を繰り広げた。まさに,「癌哲学者」である。
 1903年生まれ。東京帝国大学医学部卒業後,病理学を専攻。佐々木研究所,長崎大学,東北大学,東京大学,癌研究会癌研究所を歴任し,1973年逝去。勲一等旭日大綬章授与。
 吉田富三の生涯は,『私伝吉田富三・癌細胞はこう語った』(吉田直哉著・文藝春秋刊)に詳しい。

現代教養としての専門性とその裾野としての教養

 最近,筆者は,「癌性化境遇」と題した90分の学生講義の中で,吉田富三生誕100年に触れることにしている。吉田富三の「癌哲学」には現代の学生も少なからず興味を持つようである。講義の後に『私伝吉田富三・癌細胞はこう語った』を自発的に読みたいという学生が多数出てくるからである。
 講義中の学生の真剣な眼差しに触れ,ほのぼのとした希望を感ずる。医学部学生だけではなく,社会科学を専攻する学生にも「癌哲学」は十分通ずることは,先日の一橋大学商学部の講義でわかった。「国家の将来というものを占うにはその国の青年をみればわかる」とはよく言ったものである。
 最近の大学では「尊敬する人物」を問うてはならないようである。なんとも奇妙な時代である。これは「人そのものが教育である」ことを忘れ,教育者における自分の役割をこなしていく胆力の欠如に由来するものではなかろうか。
 教育の原点は「行く先を知らない」学生に「開いた扇の要」的起始遺伝子のごとく「方向づけ」と「動機づけ」を与えることであろう。よき先人との出会い(扇の要)はいつの時代も必要である。

癌のドラマタイプ-癌は開いた扇のようである

 「癌は開いた扇」のようである。癌化した初期の細胞は,まだ,「行く先を知らない」頼りない存在であろう。発育,進展には,境遇が大切である(癌性化境遇)。癌化細胞が,アンテナ型(外界依存性)vs羅針盤型(外界非依存性)であるかによって,性格,強さと悪性度が違う。癌化細胞といえども,大成するためには,「自分のoriginal pointを固めてから後の吸盤を前に動かし,そこで固定して前部の足を前に進める。かくていつも自分のoriginalityを失わないですむ」尺取虫運動の原則に生きているであろう。「遺伝子変異」があることと「病気発症」とは違う。病気は変えられる「表現型」=Dramatypeである。
 筆者は,競争的環境の中で個性に輝き大成する癌化細胞の5か条を提唱してみたい。
 1.複雑な問題を焦点を絞り,単純化する
 2.自らの強みを基盤とする
 3.なくてはならないものは多くない
 4.なくてもいいものに縛られるな
 5.Red herringに気をつけよ

発がんにおける連盟的首位性-起始遺伝子

 初期条件がある範囲にあると,初期の変異(起始遺伝子変異)が経時的変化とともに分子の相互作用によって,さまざまに拡大し,将来予測が不可能になる。これは初期のわずかの変異で大きな効果が出ることを意味する(連盟的首位性)。「禍の起こるのは起こる時に起こるにあらず,由ってくるところ遠し」である。
 非平衡状態にあり外部と相互作用する開かれた複雑系では,初期状態が同じでも,外部から,意識的に適時に介入すれば,ある特異点で分岐し多様性のある制御が可能になるはずである。ここに,癌の予防・治療の根拠がある。
 発癌研究の目的は,「癌の原因論」を明確にし,「癌の制御」の根拠を示し,「癌の進展阻止」の実際を示すことである。「天寿がん」の実現に向けて「癌の発生を遅らせ」,最終的には,われわれは,「癌と共存」するしかないであろう。

アイデンティティの成り立つ場所-温故創新

 筆者は,昨秋,国際癌学会議(オスロ)の招待講演(ウィルス肝炎性肝癌),フィラデルフィアでの講演(遺伝性腎癌)さらにバンクーバーのBritish Columbia大学にある新渡戸記念庭園を訪問する機会が与えられた。まさに筆者の学問の3つの研究テーマ(肝発癌,腎発癌,癌哲学)の「過渡期の指導原理と新時代の形成力」の探究の旅であった。飛行機の中では,100年以上前に英文で書かれ,現在でも世界に誇る名著とうたわれる『代表的日本人』(内村鑑三),『武士道』(新渡戸稲造)を再び熟読玩味する時でもあった。
 オスロは遺伝性腎癌ラットの発見者である病理学者Eker(1903-1996)の地であり,筆者はその原因遺伝子の同定に際して講演の機会が与えられた(1995年)。今回は2度目の訪問となった。Ekerは吉田富三とともに今年が生誕100年である。
 フィラデルフィアは筆者のMentorであるKnudson博士(1922- )に招かれ,癌学についての大いなる復習を含めた学びのリフレッシュの時であった。
 バンクーバーは1978年以来の訪問であり,24年ぶりで大変なつかしかった。オアシスのごとくである新渡戸記念庭園では静思する機会が与えられた。あらゆる分野におけるトップの品性,人格が近頃盛んに問題にされている社会状況にあって,「現代教養としての専門性とその裾野としての教養」を考えるタイムリーな機会であった。
 筆者にとっては今回の3つの訪問地はともにアイデンティティの成り立つ場所であり,「砧木の幹」であり,学問・人生の喚起の場であった。キーワードは「Grasp of things」(物事の核心をつかむ)である。まさに「小さな一輪の花を取って此花の研究が出来たなら宇宙万物の事は一切分かる」の心境である。専門性としての「領域を守る」根拠がここにある。癌病理学者が顕微鏡をもって癌細胞を研究するうちに,その方法を社会学の領域に応用しようとする癌哲学の気概でもある。

「新・代表的日本人」Vision, Passion, Mission

 何かと気ぜわしい現代,あらゆる分野で閉塞感が漂う時代において,じっくりと深く「静思」することは,学問,人生の胆力と「Vision, Passion, Mission」を語るためにも大切であると考える。
 筆者は「新・代表的日本人」(新渡戸稲造,吉田富三,他)なる本をいつか書いてみたいと密かに夢見るものである。「新・代表的日本人」の資格として,次の4条件を挙げたい。
 1.幅の広い
 2.弾力性に富む
 3.洞察と識見のひらめき
 4.示唆的な学風の価値である

吉田富三生誕100年記念事業

2003年
2月 生誕100年記念講演会(郡山)
4月 生誕100年記念寄稿集の発行
生誕100年記念会(東京)
「世界に誇る日本の医学研究者」シンポジウム(日本医学会総会,福岡)
吉田富三生誕100年記念シンポジウム(日本病理学会,福岡)
5月 生誕100年記念会(吉田富三顕彰会,浅川町)
9月 吉田富三生誕100年記念シンポジウム(日本癌学会,名古屋)
10月 生誕100年シンポジウム(DDW大阪)