医学界新聞

 

 〔連載〕ChatBooth

 なぜ,なぜなの?

 栗原知女


 私たちは,「なぜ?」という言葉をよく使う。だが,誰もがノーベル賞級の科学者になれるわけではないので,謎を解明するために寝る間も惜しんで考察や実験を重ねる……ということは,普通しない。私たちが「なぜ?」を使う時,それは単に自分の思い通りにならないことに対する不満や怒りの表明に過ぎない場合が多い。
 「なぜ,私はこんな目に遭わねばならないの?」などなど。
 小説家であれば,その「なぜ?」を発展させ,世の中の不条理について1冊の本を書くこともできようが,凡人の多くはそこまで到達することなく,思考停止してしまう。時には相手を責め立てる「口撃」の武器にも使う。
 看護職の皆さんは,
 「なぜ,こんなに愚かなミスをするの」と,部下や同僚に対して言いたくなる場面も多いだろう。だが,「なぜ,こんなに愚かなミスを起こしてしまったのか,その原因を一緒に考え,2度と起こさないようにしましょうね」と言える人は少ないかもしれない。前者の「なぜ!」と後者の「なぜ?」は天と地ほどの隔たりがある。プロの職業人にふさわしい態度がどちらかは言うまでもない。
 「女性と仕事」をテーマにしたあるセミナーで,参加者からこんな声が出た。
 「私は保育士をしているが,母親から引き離された子どもたちを見ていると,かわいそうでたまらない。なぜ,子どもを犠牲にして働かねばならないのか」。
 この「なぜ」は,単に彼女の不快感の表明に過ぎない。はっきり言えばプロ失格だ。保護者が不在の間,子どもが心身ともに健康を損なうことなく,安心した状態で過ごせるようにケアするのが保育士の使命である。子どもたちが「かわいそう」に見えるとしたら,それはむしろ彼女の責任。
 働く母親はみな,多少なりとも子どもを預けて働くことに罪悪感を抱いている。その罪状を意識的・無意識的に責め立てる「敵」も少なくない。そんな環境の中で,保育士もまた母親を苦しめる側に立つことに何の価値があるのだろう。
 「なぜ」を使いたくなる時は,自分自身に対して問いかけたほうがいい。「なぜ」と思う原因は,「こうであってほしい」,「こうであらねばならぬ」という自分勝手な思い込みが満たされないからではないか。だが,世の中は何でもアリだ。特に対人関係では予測のつかないことが起こり得る。私たちには相手を思い通りに操作する権利はないのだ。
 相手を責めることなく,自分の不遇を嘆くばかりでなく,「なぜ」を使う時は想像力をフル回転させ,クリエイティブに使いたい。それが世のため人のため自分のためになるのではないだろうか。