〔連載〕医者が心をひらくとき
A Piece of My MindJAMA(米国医師会誌)傑作エッセイ集より
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(前回2511号)
ミセズ・クーリッジが事故にあったと電話をしてきた。彼女の車は,シャーマンタンク*1の直系の子孫ともいえるしろものでほとんど無傷だったが,ミセズ・クーリッジは,あちこち傷だらけで,少しふらつくということだった。相手の運転手はジャージ姿の若い女性で,精神的なショックを受けているということだった。自分の運転していたボルボがどれだけ潰れてしまったかを見た後,その女性のショックはとりわけ大きくなったらしい。
95歳になった自分に救急外来など行っている暇はないと,ミセズ・クーリッジは警官に言ったという。時間がないだけでなく,こんな年で救急に行くなど金をむだにするだけのナンセンスだと言い張ったのだった。警官は機転を利かして――そして,私からみれば非常に勇敢にも――ダッシュボードに「この車売りたし」と書いた紙を置いて,食料品店の駐車場に車を停めたままにすることを勧めた。警官はミセズ・クーリッジを家まで送り,私を受診することを約束させたのだった。
ミセズ・クーリッジが住むアパートの建物の前の日陰に,私は車を停車させた。車は低いエンジンの音を立てていたが,何か革命のことを歌った「60年代の米国歌」といわれた曲の最後の旋律に私は耳を傾けた。ミセズ・クーリッジの住所を控えた紙をダッシュボードから取ろうとしたときに,プラスチック・カップを倒してしまい,タコ・ソースがベージュ色のズボンの上に飛び散った。くそっ,いったい何で彼女の往診依頼に応じてしまったのだろう,と私は心の中で毒づいた。
私は,ミセズ・クーリッジの部屋を探して敷地内を歩き回った。老人たちの住まいに特有の甘い香りがあたりに漂っていた。聞き覚えのある声が,網戸の向こうから聞こえてきた。
「お入りになって,ジョン」
彼女はレイジー・ボーイの椅子にからだを前かがみにして座っていた。山の頂上に立つ中年の人物を描いた絵を,椅子の横のランプが薄暗く照らしていた。彼女は,青あざのついた右目に当てていた氷の袋をそっと離すと,しかめ面をした。深いしわが,額から頬,唇へと続き,顔の中で輪を描いていた。前腕の萎びた皮膚の下に卵形をした紫色の出血斑が見えた。
「本当に,ひどくやられましたね」
と私は言った。
「排水溝に落ちたままにしてくれてたらよかったのに」
というのが彼女の返事だった。
「頭が痛んだり,目がかすんだりしませんか? ふらついたり,力が入らなかったりは?」
「そんな症状が全部あっても,全然なくても,どうでもいいじゃないの?」
ミセズ・クーリッジがぴしゃりと言った。
「お話をする気分ではないというのなら結構ですが,診察だけでもさせていただけますか?」
「どうしても診察したいというのなら,どうぞ」
私は,そっと血圧計のカフを彼女の腕に巻いた。そして,頭部表層の外傷の有無をみるために,白髪の中を触診した。胸部に聴診器を当てたときに頭を下げた私に,ナイロンの靴下越しの筋肉質でしっかりした脚が目に入った。100年近く生きてきたとは思えない,丈夫そうな脚だった。
テープで壁にとめられた紙が,網戸から入る風で揺れていた。紙は私の診療所の便箋で,その上には「DO NOT RESUSITATE!」と書かれていた。「S」と「I」の間に,震える筆跡で「C」が付け加えられていた*2。
私はくすくす笑った。
「何年か前に,私が書いた指示ですね」
「ええ。救急隊が絶対に見逃さないように,ドアの正面に貼ったの。私の意図が誤解されないように,あなたがしたスペルの間違いも直しておいたわ」
と彼女は言った。
「ま,今回は,あの指示のごやっかいにはならないでしょう。擦り傷や打ち身しかないようですね」
「診察がすんだというのなら,一杯おやりになったら」
ミセズ・クーリッジが台所のカウンターを指さした。
「ラ,フロ,イグ」
私はビンを手に持ち,ラベルを読んだ。私は,クリスマスプレゼントに彼女がこのウィスキーをくれたときのことを思い出した。ピーナツ・バターのビンに数横指分入れて持ってきてくれたのだが,私は濃縮した尿検体と間違えたのだった。
「これは,いい酒ですからね。お言葉に甘えて一口いただきますか」
そう言って,私は言葉を止めた。
「でも,事故が起きたばかりだし,あなたはお飲みにならない方がいいでしょうね」
「いったい,何をばかなことを言ってるの,ジョン。もし,あなたが入れてくれないっていうんだったら,私這ってでも入れにいきますからね」
私は降伏して2人分を入れたが,彼女のコップには水をたっぷり追加した。
「もう1回,ラ,フロジェーの話を聞かせていただけますか?」
私はウィスキーの名を言い損ねながら,彼女に頼んだ。
「『ラフロイグ』は,ゲール語で『美しい海辺の窪地』。シングル・モルトのスコッチで,ヘブリディーズ諸島*3の羊飼いたちが作るお酒だと思ったわ。島で取れる泥炭の火でモルトを乾燥させて,樫の大樽に何年も寝かせて完熟するのを待つの」
2人とも黙ってウィスキーを口にした。モルトに煙りのにおいがした。私は,北極海から吹きつける潮風に震えながら火を取りまく羊飼いたちの姿を想像した。
「年を取るって,どういう感じなの,エスター?」
うっかりそう言って,私はウィスキーにむせそうになった。年上の女性をファースト・ネームで呼ぶのは,子ども時代に受けたしつけに反することだった。
「完璧に胸が悪くなる体験よ。夫も友だちもみんな死んでしまって,死んだ人たちのことを覚えているのは私だけになってしまった。息子が生きているからまだ運がいいけれども,息子もいい年ですからね。今年,私は,教会の聖歌隊をやめたわ。もちろん,引きとめられたけれども,『一番前にいるあのカエルは誰だ?』って,みんながこそこそ言っているような気がしてしかたがなかったの。今度のことで,運転することもあきらめなければならないし,これからはどこに行くのにも若い人のお世話にならないといけない。年を取るっていうのは,人生から楽しみや大切なものが1つひとつ奪われていくことよ」
「ヘンリー・ジェームズが書いた話を聞いたことがありますか?」
私は彼女の話の腰を折った。
「イギリス人のある男性が,90歳の誕生日がくるまで肖像画にかかれるのを拒み続けた話です。経験と知恵を積んで,後に続く子孫たちを導けるような完璧な人間がキャンバスにかかれるようになるまで,彼は待ち続けたのです」
「人が90になる頃には,絵にかかれるようなものはほとんど何も残っていやしませんよ」
彼女は怖い顔をして言った。
「ま,私が何を言っても,納得していただくことはできないようですね。でも,この街の多くの人間にとって,そして,私にとっても,あなたは特別の意味を持った人なんだということを忘れないでください」
と私は言った。
「私,あなたのことが気に入っていてよ」
彼女が言った。
「私は,いつも,臨床の腕よりもベッドサイドマナーを優先して医者を選ぶのよ」
私は,頬が熱くなるのがわかった。
「お世辞を……,お世辞だと思いますが……,言ってくださってありがとう」
2人で声を上げて笑った。
「ね,私の年になると,お世辞をちゃんというのも難しくなるの」
と彼女は言った。
「気分が悪くなったら,すぐに電話してくださいますね」
彼女はうなずいた。右目は氷をあてていたのでわからなかったが,左目が涙で潤んでいた。
私の車の上に,建物の影が長く伸びていた。空にはピンク色の雲がかかっていたが,陽はすでにパイクス・ピーク*4の向こうに落ちていた。車のラジオで,バッハのプレリュードをかけている局をみつけた。私は,家まで裏道を選んで車を走らせた。
*1 第2次大戦時に製造された米軍M4シャーマンタンク
*2 「DO NOT RESUSCITATE!」と正しく綴られたときは「蘇生処置をしないで!」という意味になる。このように,まさかのときの処置を事前に決めておくことを「Advance Directives(事前の指示)」という。
*3 スコットランド西方約500の島。
*4 コロラド州の山岳地帯。
●本エッセイについて本エッセイは,世界的に知られるJAMA(アメリカ医師会誌)の名物コラム『A Piece of My Mind』の傑作選(日本語版タイトル:『医者が心をひらくとき』)に収められた1作品である。同書には厳選された100の傑作エッセイが収載されているが,それらはいずれも医師たち(時に,医師の家族や患者など)の心の告白であり,印象深い臨床的体験が綴られている。●ロクサーヌ・K・ヤング編,李啓充訳 『医者が心をひらくとき』(上・下) (上下巻各2000円+税,医学書院) |