医学界新聞

 

〔連載〕How to make

クリニカル・エビデンス

-その仮説をいかに証明するか?-

浦島充佳(東京慈恵会医科大学 臨床研究開発室)


2502号よりつづく

〔第34回〕エイズ・エピデミック(4)

やっとエイズウイルスが発見される(1984年)

 1970年代,猫に免疫不全と白血病・悪性リンパ腫を引き起こすウイルスが知られていることから,「エイズも逆転写酵素を持つレトロウイルスが関与しているのではないか」という憶測はありました。1984年になってエイズウイルスが多くの研究所よりサイエンス誌に相次いで報告されました。そして,臨床的にもこのウイルスがエイズの原因であることが証明されたのです。最初の報告がなされてから僅か3年,しかも数例ずつの単純な症例報告とサーベイの結果を中心として知見を蓄積しつつ,一応の結論に至っています。
 通常であれば,ダブル・ブラインド・プラシーボ・コントロール・クリニカル・トライアルか,相当しっかりした観察研究しかアクセプトしないニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスンやランセットが,事の重大性をいち早く認識して症例報告やサーベイ結果を掲載しました。これは画期的なことであったと思います。逆にトップジャーナルにアクセプトされる基準は科学的方法に拠ることも重要ですが,最も大切なのは内容が強いインパクトを持っているといえるでしょう。

ストップ・エイズ

 病原ウイルスを発見することより,エイズの伝播を止めることが最優先です。エイズウイルスが感染すると2-3週間の期間を経て無症状の感染期間に移行します。この期間はおよそ10年と言われ,その後免疫不全の症状を呈し,1-3年で死に至ります。
 エイズ問題はレーガン政権の時に発生しました。レーガンの政策は「セックスについては語らず,ワクチンができるのを待とう」というものでした。ですからアメリカ公衆衛生局のクープ博士もテレビに出演した際に,「コンドームという言葉を使用するな」と釘をさされ,「セックスの回数をなるべく減らすように」というに留まりました。エイズが広がりだした極初期,友人をエイズで亡くしたり,報道などを耳にすることにより,人々の行動は徐々に変化していきました。しかし,その変化はあくまで緩やかなものでした。
 もしも,事の重大さを強調し,最初からコンドーム着用を徹底させる政策をとっていたらどうなっていたでしょうか? 今ほどの犠牲者を出さずに済んだかもしれません。
 1980年代後半よりタイは年間8-10%の経済成長を遂げていました。しかしタイの人々はエイズの脅威に曝されます。1980年代後半,アメリカ海軍駐留兵,薬剤使用者,セックスワーカーの間でエイズが蔓延し,感染率は35%にまで上りました。続いて男性が8%,そしてタイの病院にはエイズの子どもがあふれました。しかしタイ政府はアメリカ政府とは対照的に早期対策に打って出たのです。テレビを通したコンドーム使用の徹底的キャンペーン,そして1年で7千万個のコンドームを無料配布したのです。NGOもこれらの政策をサポートしました。このコンドーム使用キャンペーンにより性感染症は80%減少し,若い兵隊のHIV陽性率も7.5%から3.4%にまで減少しました。しかしエイズにより多くの出費があり,しかも働き手を亡くした家族は貧困に喘いでいます。タイのGDPは3/4まで減少したと言われています。しかしエイズコンドーム使用キャンペーンを行なっていなかったら,国の存続すら危うかったかもしれません。

観察研究から臨床試験へ

 現在のエイズ治療に落ち着くまで,実に多くの薬が試されました。うわさで「あれが効く」と聞けば,患者さんは「藁をもつかむ」思いで試したのではないでしょうか? そしてほとんどの薬はランダム化臨床試験で無効であることが判明し,姿を消していったのです。中には人の弱みにつけ込んだ悪徳商法もあったことでしょう。しかし原因ウイルスが同定されてからは,その増殖機序にターゲットが絞られます。そして,1986年NIH(米国立衛生研究所)によりエイズ臨床試験のグループ(ACTG)が組織され,製薬会社バックアップのもと,本格的臨床試験が推進されたのです。
 ACTG発足以前は一切有効なエイズ治療薬が発見されませんでしたが,1987年にはAZTが初めてエイズの治療薬として認可されました。しかし,患者さんたちは「この薬はNIH,製薬会社,医者連中の面子を保つためにでっち上げられた薬だ」としてAZTをいぶかり,「われわれはAZT治療のモルモットにされて死んでいった仲間を知っている,だまされるもんか!」として,新薬を受け入れませんでした。このような医療不信は,臨床試験,さらには新薬開発を大いに遅らせてしまったのです。