医学界新聞

 

〔連載〕医者が心をひらくとき

A Piece of My Mind

JAMA(米国医師会誌)傑作エッセイ集より
ロクサーヌ K.ヤング(編)
李 啓充(訳)

先生,本当に?
トーマス・M・ギル


前回2495号

 82歳のミセズ・ハインズは,私が受け持つ前は,最終年次のレジデントが担当していた。この患者はいくつかの問題をかかえているけれども,どれも落ち着いている。そして,医学的常識から見たら古風な治療を行なっているけれども,それでまったく問題は起きていないと,前の担当医から引継ぎを受けていた。
 初めての診察の際,ミセズ・ハインズは,前の担当医がいなくなったことを嘆いてはいたものの,とても元気に見えた。
 「あの先生を,やっと,思いどおりに仕込んだところだったのに」
 と,彼女は目をきらきら光らせながら言った。
 「先生,しばらくはこの病院にいてくださるんですね?」
 と,彼女は聞いた。私は,レジデントとなって間もないこと,少なくとも,あと2-3年はこの外来を担当することを彼女に保証した。彼女は私の答えに満足したようだったが,やがて,私の私生活や経歴について聞き出した。
 「結婚されているんですか? シアトルはお好きですか? お住まいは近くですか?」
 話を患者の身体の問題に戻すのには若干の努力と駆け引きを要したが,私は,彼女の収縮期血圧が194まで上昇していることに気がついた。私は彼女のカルテをざっと見ていったが,過去数回の外来受診の際にも血圧が高かったこと,しかし投薬されている薬の量は常識では考えられないほど少量であったことを知った。私は,投薬内容を変えなければならないと彼女に説明し,即座に,最新の強力な降圧剤を処方した。
 「先生,本当にそうしないといけませんか?」
 彼女は私の判断に疑義を呈した。
 「前の先生は,私の場合,元気だからそれでいいって,いつも,おっしゃってくれてたんですけれど」
 私は彼女の手を握り,安心させようと説得した。
 「もし,いま,投薬内容を変更しなかったら,私としては心配でたまらないのです。最近のお薬は,以前のものに比べると効果も強い上に副作用も少ないんですよ」
 彼女はにっこりほほ笑み処方箋を手にすると,その内容を子細に調べた。
 「それでは,試してみようかしら」
 もちろん,私の判断が正しいに決まっていた。高血圧をコントロール不良のまま長期に放置した場合,無数の結果を招来しうるからだ。しかし,ミセズ・ハインズは,自分が受け持つまでもなく80代になるまで元気に過ごしてきたという事実を,私は,プロフェッショナルとしての傲慢さゆえに考えにいれようとはしなかったのだった。
 その翌日,私は,彼女との運命的出会いで自分がしでかした失敗を思い知ることとなった。都市部の病院の救急部に所属する1年目の内科レジデントとして,私は地域の救急隊と連絡を取り監督する責任を与えられていた。午後も遅く,救急隊からルーティンの連絡を受けた。救急隊は家で失神した82才の女性を診察しているということだった。座位になると,激しいめまいとふらつきが起こるというのが彼女の訴えだった。脈拍は40,収縮期血圧は90とのことだった。彼女を近隣の私立病院に連れていって治療を受けさせたいというのが救急隊からの要請だった。私は彼らの考えに同意し,搬送先の病院の救急部に事前に連絡をとる必要があったので,主治医の名前を聞くように頼んだ。電話の向こうで,救急隊員の質問に答える甲高い声が聞こえた。
 「ギル先生が私の主治医です」
 そんなばかなと思ったが,間違いではなかった。前の日に
 「先生,本当に?」
 と尋ねたのと同じ声だった。私はほとんどパニックに陥っていた。脈拍は140まで上がり,頭がずきずきした。私の医師としての経歴が危うくなるかもしれないのだ。私は,自分がすでに腰掛けていたことを神に感謝した。額の冷や汗をぬぐいながら,おどおどしつつも救急隊との連絡を終え,私は,搬送先の病院に15分でミセズ・ハインズが到着することを,冷静に(何たる自己抑制か!)知らせたが,彼女が救急隊に運ばれる事態を引き起こした真犯人が実は自分であるなどということを,ばらすわけにはいかなかった。
 その日の救急部での勤務時間帯の間ずっと,私は呆然としていた。この事態を引き起こしたのは私の責任ではないと自分に言い聞かせようとしたが,時間的関係は議論の余地がなかった。私を受診するまで,まったく何の問題もない患者だった。私が投薬内容を変更した途端,病院に運ばれる結果となったのだが,これらすべては24時間以内に起こったのだった。有罪であることは明らかだった。
 次の日の朝,入院先の病室を訪れた私を,ミセズ・ハインズは嬉しそうに迎えた。
 「私の先生よ」
 と,彼女は血圧を測っていた看護婦に誇らしげに告げた。私は,彼女に何が起こったのかと聞いた。新しい薬を飲んで1時間もしないうちに気分が悪くなり,「冷や汗」が出,「色つきのメダルのような光を見るような」感じがした,というのが彼女の話だった。彼女は,私の顔に自責の念が表れているのを察したのに違いなかった。というのも,
 「ご自分をお責めになってはいけなくてよ。私,新しい薬にいつも敏感なようなの。いつでもこうなるんですよ。おわかりだったでしょ」
 と,彼女がきっぱり言ったからだった。私はわかってなどいなかった。診察時に時間をかけて彼女の話を聞こうとはしなかったからだった。
 3日後,ミセズ・ハインズは退院した。幸運にも,血圧降下のエピソードによる長期の後遺症は残らなかった。その後3年間,私は外来で彼女を担当し続けたが,収縮期血圧は高いままだった。投薬は,私が担当する以前からの,超低量だが,有効な量の内容に戻され,私はその処方を3か月毎に更新した。2週間前が,私が彼女を診察した最後となった。私たちは,初診時に起こったことを回想した。私は,自分はあと2か月で外来を離れ,新しい医師が彼女の受け持ちになると,彼女に告げたばかりだった。私の喪失感と寂しさを察したのか,このときは,彼女が私の手を握る番となった。数秒間の沈黙が続いた。やがて,顔を明るく輝かせ,彼女はにっこりほほ笑んだ。
 「また,次の先生を仕込まなければならないようね」

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