医学界新聞

 

「週刊医学界新聞」創刊2500号記念対談

日本の医学・看護の再構築を語る

戦後50年が育んだ礎石

川島みどり氏
(健和会臨床看護学研究所長)
   日野原重明氏
(聖路加国際病院理事長)


 「週刊医学界新聞」が創刊2500号を迎えた。(株)医学書院の創立は1944(昭和19)年。まさに第2次世界大戦中のことであったが,「週刊医学界新聞」は戦後の1949年に「科学図書新聞」として創刊され,1955年に「医学界新聞」(当時は旬刊,週刊化されたのは1957年)と改題された。今回は,創刊2500号を記念して,日野原重明氏(聖路加国際病院理事長)と川島みどり氏(健和会臨床看護学研究所長)の両氏に,戦後の約50年,そして,20世紀から21世紀へとつながれた医学・看護のあり方などを語っていただいた。


■終戦直後の日本の医療状況

GHQと日本の医学・看護

日野原 昨年の秋から,「A50;appreciation 50」という運動にかかわり,その委員になりました。この運動は,昨年,日米講和条約が締結されてちょうど50年になるのを記念して,いろいろな意味で恩恵を受けているアメリカに感謝を示そうという発想のもと,民間だけでなく政府も関係している事業です。
 戦後,日本はアメリカに医学関係,後には看護もというように,留学をどんどんとするようになりました。それから50年経って,「日本からアメリカに対して何かできることはないだろうか」と考えるグループが発足したのです。昨年の9月11日,ニューヨークで同時多発テロのあった時ですが,ワシントンに行って,ブッシュ大統領に会い,感謝の意を伝えました。
 また,アメリカの人々が日本を理解するために,戦後の日本において,経済,文化,医学,医療などがどう変わったかという歴史を日本語と英語で出版しました。私は,医療関係を代表して委員になっていますので,1945(昭和20)年からGHQ(当時の連合国軍総司令部)が,講和条約締結によって引きあげるまでの数年間の日本の医療,および医学・看護教育に,どのような影響を与えたのか,つまり,当時のGHQの初代看護課長を務めたG.E.オルト少佐や,その上司であり,「日本の医学を変えなければいけない」というミッションを抱えて来日にしたサムス准将が,日本の病院や看護,また医学の制度や教育へどうアドバイスをしていったかということを書きました。GHQがいたのは,わずか数年だったけれども,驚くべき医療や教育の変革がなされました。また,「日本国憲法」が作られたのもこの間です。
 GHQの人々が,戦後の日本の病院を巡回した時のレポートを見ると,当時の医療は恥ずかしいほど後れていましたね。
川島 1996年の「週刊医学界新聞」紙上で,「看護の50年を振り返る」ををテーマとした座談会(1996年11月-1997年1月,全3回)を開きました。その場では,金子光先生(元厚生省看護課長,元衆議院議員)と高橋シュン先生(現聖路加看護大学名誉教授),私の3人でお話をしたのですが,その時に金子先生がGHQと巡回した時のことを話しておられました。皆が鍋や釜を病院に持ち込んで,家族中が入院していたということでした。
日野原 ベッドの下に付き添いの人が寝てるんですね。
川島 そうでしたね。ゴザを敷いて。
日野原 廊下では,七輪で火をおこして煮炊きしているわけですし,それを見たオルト少佐が「これは病院じゃない。ボーディングハウス(boardinghouse)だ」と表現したと金子先生が言ってますね。あの頃の日本の病院は,外国と違って,大きな部屋に避難民が集っているような状態で,天井にはハエ取り紙が吊るしてあった。
川島 病棟の窓の下に草が生えていても網戸がないですから,蚊がブンブン飛んで大変でした。ですから,今の若いナースにはわからないと思いますが,ベッドには全部蚊帳を吊っていました。準夜勤の人が蚊帳を下ろし,深夜勤の人はその蚊帳を巻き上げるのが仕事で,蚊帳の上げ下ろしは,夜勤ナースの大変な仕事だったんです。
 私は,1951年,ちょうど講和条約締結の年の卒業なんです。「週刊医学界新聞」が発刊された頃は,日野原先生が私たちのクラスに薬理学を教えてくださっていました。先生はその頃お身体がちょっと弱くて,お座りになったまま講義をされていましたが,「日野原先生の薬理学」といったら名講義で,それを必死で聴いていました。私,すごく成績はよかったんですよ(笑)。ジギタリスのことやコカインのことを,とても印象深くお聴きして,50何年経った今でも覚えています。

りりしかった時代の医師・ナース

日野原 聖路加国際病院は,今年で創立100年を迎えますが,私は,1937(昭和12)年に京大を卒業して,結核で身体が弱かったけれども,大学院での研究を終えて1941年に聖路加病院に就職したら,その年に太平洋戦争が始まったんです。私の出身である京都の帝国大学(現京大)には木造の古い病棟があったものの,新しいコンクリートの病棟もあったので,私はかなりモダンな建物だと思っていたのですが,聖路加病院を見たらまるで感覚が違いましたね。
 あの頃は,「聖路加メディカルセンター」,日本語では「聖路加医道院」と訳されていましたね。「メディカルセンター」という名称は聞いたことがありませんでしたし,京大とはまったくセンスが違うと,あらゆるものに驚きました。私は,「東京というのは大変なものだ,うまく医者が勤まるか」と思ったほど感覚に違いがありました。
 それから,聖路加病院のナースたちは,高橋シュンさんに代表されるように,シャキっとしていてね。あの頃のナースは,医師に報告をする時は座らなかったですね。ナースステーションで座るということもなかった。今のアメリカでも,座るということはしていません。医師も,立ったままで作業をしています。私のその時の聖路加の印象は,ものすごく規律があって,きちんとしているということでした。
川島 座って申し送りや報告をするようになったのは1970年代以降からですね。
日野原 それはどうしてですか。
川島 疲れるからなんだそうです。私も,本当に最初は違和感を覚えました。私が現役のナースとして日赤にいた頃は,立って申し送りをするのが当然でした。現役を退いてからいくつかの病院で申し送りを見る機会がありましたが,皆,デンと座ってるんですね。朝ご飯を食べてこない人がいて,貧血を起こしたりするので座らせていると婦長さんがおっしゃっていました。
日野原 最近の若い人は座るのが当たり前のように思っているようですが,昔は,戦前も戦中も,人が電車に乗って眠るということは,まずなかったですね。私も中学・高校の頃は,席が空いていても座らなかったです。立っているほうがカッコよかったんですね。それが,皆座ったり,果ては,寝だしたでしょう? 朝から電車の中で寝てますね。私は,アメリカ人から「日本人というのは寝る民族か」と聞かれましたよ(笑)。日本人は,アメリカに留学しても,学会に行っても「眠っている」と言うんだ(笑)。私は,日本人の心持がすっかり変わったと思いますよ。

若手医師を育てたのはナース

日野原 戦前の話をもう1つしますと,私は京大で2年間研究室にいたのですが,今で言います研修医時代に,半ばアルバイトで京都病院という伝染病院に勤務しました。そこは1000人の入院患者がいるのに当直医は1人で,多い時には夜の間に,赤痢,疫痢で80人もが入院してくるんです。それを1人でこなしました。
 ナースが細菌の培養を手伝ってくれていたのですが,私についたナースが,腸チフス菌を培養する際に,ピペットから培養菌を吸い込んでしまったんです。昔はスポイトではなく,口で吸ってたんですね。それで発病してしまい,10日後に亡くなるということがありました。
 そのような状況で,私は内科医でありながら気管切開術もしました。実のところ,どこを切るにはどのメスかなど,全部婦長さんに教わりました。そのおかげで,最初は1時間ぐらいかかって切開していたものが,最後は数分でできるようになりました。静脈への点滴も全部ナースに教わりましたね。あの頃のナースの能力というのは大変なものだったと思いますよ。若い医師をみんな指導していましたね。
川島 そうですね。手術室でも新しいドクターにはナースがすべて教えていました。
 先ほど先生がおっしゃったように,戦後間もなく,GHQの指導で看護の最初の教科書とも言うべき,『看護実習教本』が吉田時子先生(現聖隷クリストファー看護大名誉教授)をはじめ,当時の看護教育模範学院(Demonstration School of Nursing)の教師たちによって作られましたが,序文をオルト氏が書いています。そこには,「アメリカの看護技術を日本で使えるかどうかを試すために,この教科書は作られた」とあります。看護教育のカリキュラムはそれから何度も改正されていますが,その教本の底に流れている看護基礎技術というのは,今も変わらずに続いているんですね。
 私が共同研究者らとともに,昭和40年代のはじめの頃でしたが,看護基礎技術を見直してみる必要を感じ,最初に取りあげたのが「全身清拭」でした。そこで気がついたのは,日米間には歴然とした文化の違いがあるのに,それが清拭技術の中には生かされていないということでした。日本には古くから,「お風呂」という文化があるのに,教科書に記載されている内容は,それと無関係です。つまり,技術1つを取ってみても,日本のナースの意識がまだ高くない頃にGHQによって政策,制度そのものが変わってしまいました。その時の影響が50年を経た今でも続いているような感じがします。自分の頭でものを考えてきちんと判断するというのではなく,常に命令されないと動けないような体質が備わってしまったのかなという……
日野原 そう,マニュアルがあったら,そのとおりやればよいという。でも,そのマニュアルが,ことに基礎看護などについては,とても古いものになっている(笑)。

■アメリカ医療に10年以上遅れる日本の実態

古きモノがはびこる医学・看護

日野原 この50年の間に医学も看護もずいぶん変わったけれども,それは表面的なもので,その底流にある基本的な能力には,変わらなければならないものがまだまだたくさん残っていると思います。いまおっしゃった基礎看護がそうです。それから,例えば死後の処置ですが,なぜ脱脂綿を肛門内や鼻腔に詰めなければいけないのか,「あなたは考えてやっているんですか?」と聞きたいですね。訪問ナースよりも私が先に在宅患者を往診した時には,死者への清拭を家族の方と一緒に済ませるのですが,ご家族が「脱脂綿はどれくらい必要ですか」と言ってくるんですね。皆がそう思ってる。だから私は,「どうしてそんなことをやるんですか」と逆に聞きます。昔は老人も子どもも洟(はなじる)を出しました。ところが,今は洟なんか出ないし,特に老人が亡くなる場合には脱水を起こしていますから,死んでから水が出るようなことはないんです。鼻の中にまで脱脂綿を詰めるなんて,とんでもないことです。
 それから体温ですが,病院の温度表には37度のところに赤線が引いてある。聖路加国際病院もそうですが,入院患者の3分の2ぐらいは65歳以上の患者で,彼らの平均体温は35.5-36度です。私の平熱は35.5度ですから,36.5度だと普段より1度高いのだけれど,すべてに37度で線を引かれると平熱以下になってしまいます。「37度の熱」というのは,若い患者が多い時代のことだったのですね,ですから「個別ケア」と言ってるわりにはそこができていません。なにか古い考えが,新しい看護や医学と混じっているような気がします。教育の中にも,まだまだそういうことがありますので,基本的に,教わったことをそのままやるのではなしに,合理的に考える,皆の知恵で考えて,研究を始めることが必要と,私は常々言っているんです。
 私は1951年に,心・循環器学を勉強しようとアメリカへ行ったのですが,基本的な輸液のやり方がまるで違う。これは循環器どころじゃない,基本的な内科の常識がなくてはならないということで,輸液の電解質を勉強して帰ってきました。それが日本では最初の電解質の本(『水と電解質の臨床』,絶版)となったのだけれども,今,電解質の知識がどれほど合理的にわかっているかというとおぼつかないですね。
川島 看護界でもたくさんの方が留学されました。私はちょうど,結婚・出産・育児という時期で,留学はかなわなかったのですが,留学から帰ってきた人たちがアメリカの看護体制などを紹介します。ただその場合,「アメリカの看護はすばらしい」ということは伝わるのですが,なぜアメリカ看護の中でそういったものが生まれ,育っていったのかという背景が語られないままでした。形だけをポンと持って来て,それで日本の看護界は一種の熱病のように一斉になびいてしまう。納得できませんね。
日野原 そのようなことは,実はアメリカではもうやめてしまって10年とか15年を経たものなんですね。
川島 ええ。だから,失敗するのを待ってから取り入れても遅くはないのに,失敗も含めて真似をしています。

軽視される日米の状況差

日野原 私は,このような(下図)を作りました。これをみるとわかると思いますが,POSは,アメリカで紹介されて1年後に日本に持ってきたから早く日本に入ったんだけど,他のものはアメリカで流行して数年を経てから日本に紹介されているから,実はもう古いのです。
 看護過程はアメリカでは1967年からですが,日本に入ってきたのは1984年で,20年近いギャップがありますね。それから看護診断は1973年が1990年。最低でも,アメリカの流行を翻訳して一般化するのに10年かかっている。でも,その時には,アメリカはもう変わっている。
川島 DRG/PPSも,もう向こうでは反省している段階なのに,日本ではこれから導入しようとしています。
日野原 そうです。国際社会においては,いろいろなことが刻々に変わっていくのだということを,私たちは十分に知らなければいけないですね。戦後50年が経過したこの時に,外国のよきものを日本に同化しなければいけない。日本にはオリジナリティがないまま,表面的な模倣だけで終わってしまうのではないかと気になりますね。
川島 本当ですね。この50年の歴史の中でも,例えば,「患者中心の看護」という言葉が入ってくると,ただ,スローガンとして言われるばかりで,本当の患者中心とはどういうことかということは考えてきませんでした。60年代の初めに,アメリカでも人員不足が深刻だけど,患者中心の看護を実践する上で「チームナーシングが最高の看護提供方式」として,そのシステムが紹介されました。その頃日本は極度の人手不足で,「チームナーシングさえすれば,少人数でできる」と飛びつきました。ところが,アメリカのナース不足と,日本のナース不足では桁が違っています。
日野原 大雑把に言うと,アメリカの4分の1の数ですからね。
川島 そうですね。私が覚えているのは,日本で本当にチームナーシングを導入した場合にどうなるかを,実際に試行しようとしたら,人を増やさなければできないという珍現象が起こったことです。それでも,日本国中が「チームナーシングもどき」をしました。婦長さんたちが,「おたくは機能別ですか,チームナーシングですか」「うちはチームナーシングです」「いいですね」という挨拶を交わすほどでした。
 ところが,やっとチームナーシングが普及しかけたと思った頃に,「チームナーシングは皆が責任を持てないシステムだから,プライマリナーシングがいいんだ」と。そして「これこそ最高の看護提供方式だ」と,それへの期待が高まるわけです。
日野原 プライマリナーシングは,ちょうど日本の4倍の数のナースがいてできることです。日本のナースの数ではとても……。
 今,アメリカではナース不足時代がきています。男女とも医学よりは,コンピュータサイエンスに進む若者が多くなり,一方,ナースになろうとしていた人は,むしろ医学部へ入ろうとする傾向があって,ナースになろうという人は減少しています。そして,大都会では病院のナースが非常に少なくなって,今は准看護師どころか無資格者がたくさん入ってきています。しかし,病院スタッフとしては,「ノンプロフェッショナルだけれども責任は医師にある」ということを明言して,彼らを厳格に教育をして使っています。今では,ノンプロフェッショナルが堂々とチームの中に入り込んでいます。そういう日本とアメリカの看護の状況を踏まえないで,ものごとを進めてしまうからおかしくなるのですね。
川島 ですから,日本でもこれから無資格者がいっぱいになるのではないかということを恐れますね(笑)。

福祉・医療・教育には時限立法制を

日野原 何かを一度決めると固定してしまって,それによって役所は指導する,という体制も日本の特色でしょうね。私は,この50年の日本の進歩というものが表面的なものであって,必ずしも内容的ではないという反省から,福祉と教育と医療の法律は,せいぜい3-5年の時限立法にすべきだと考えています。そうなれば,3年経ったら無効になりますから,そこで変えなくてはならないでしょう? 私は,この「時限立法説」をさかんに言っているのです。
 医師の卒後研修のことでも,学生運動が起こって,1968年にインターン制度の廃止を決定する時の審議会に,私は委員として参加をしていました。その時に,「日本にインターン制度がなくなれば,日本に勉強に来る外国の人がいなくなるどころか,世界から軽蔑されますよ。その責任を,皆さんは取れるのですか」と発言し,私は研修を受けたい人のために,2年間の研修制度を提唱しました。それから30年以上経って,2004年からの「卒後臨床研修の義務化」が決まりました。このように法律は変ったのですが,私は,国民の健康を守るためにするのだったら,そんなに時間をかけてはダメだ,と言いたい。
 また,今の日本では医師の国家試験を通って卒業したら,研修をしなくても開業して「内科」などを標榜できます。外科医は手が震え出したら,小児科医や内科医,精神科医になってもよいという構造です。勉強せずに精神科の医師になるなんて,そんなに国民に対して無責任なことを,どうして許すのかと思います。国家試験を受けて通った人で,研修を受けない人が毎年1600人はいるんですね。そうして研究室で勉強ばかりをするから,早く博士になれます。そしてその研究室に居座るわけですが,それでもらうような医学博士号には意味がありません。まして,臨床を知らないから教えることができないわけです。そんなことをしているのは日本だけで,こんな無責任なことは,アメリカの医師には恥ずかしくて言えませんね。
 アメリカは,医学部に入ると2年後に基礎試験,そして卒業してから2年の研修の間にpatient managementの試験というように,試験は都合3回あるんです。また,開業しようと思ったら,今度は開業試験を受けなくてはならない。つまり,開業するまでに試験が4回あるわけです。日本は,たった1回の国家試験にうまく通ったら,何もしなくても勝手な標榜が可能です。このことを国民は知りません。私は,来年になりますが,国民に向けて,こういった実態を露骨に書こうと考えています。

■命を守るためには法律の拡大解釈も

ハーバード大に学ぶもの

川島 私は先日,『ハーバードの医師づくり』(田中まゆみ著,医学書院)という本を読んだのですが,読後に日本の医学教育はどうなっているんだ? と思いました。
 ハーバード大では,研修医にまず教えることは,第1に「嘘をつくな」ということ,2番目は「患者さんに敬意を払いなさい」,3番目が「当り前の病気をちゃんと診断してエビデンスに基づく治療をしなさい」ということで,その3つを徹底的に研修医に「たたきこむ」と書いてありました。
日野原 その著者の田中先生は,今年7月に聖路加国際病院の消化器科で,1か月間のレジデント研修を受けに来ていましたが,彼女がいることで,日本のレジデントも得ることが数多くあったと思います。例えば,チャートの書き方,時間の使い方,判断の仕方などですが,それを彼女が聖路加で実施して,彼らに勉強のしかたを教えてやってほしいと思っていました。
川島 いいですね。本の中には,カルテの書き方についてもとてもよく書いてあって,私は,これは「ナースづくり」にもいいなあと思いました。
日野原 医師とナースと両方が記録を持っていて,看護記録になんと無駄な記載がこんなにあるかと思いますよ(笑)。3分の1でいい。本当にピシッとしていればね。医師のほうも無駄が多いですね。
川島 オーバーラップしている部分が多いですね。
日野原 ええ。電子チャートになると,1つでないと困っちゃいますよね。そういうこともあって,私はアメリカの指導者を呼んで研修をしていますが,彼女が来たことは,ものすごくレジデントにとって刺激になったと思っています。

法律がはばむもの

川島 先ほど医学の話をされましたが,私が今心配していることは,ナースの臨床能力レベル,実践能力が年々下がっていることです。大学化ですとか,専門看護師重視の方向は,本当は臨床の質を高めていくはずなのに,どうもそうではない。根本としては,基礎教育のところでもっと実践能力を高めるような技術教育をすべきだと思っています。
 戦後間もない頃の臨床実習では,身の回りの世話はもちろん,注射から何から教室で学んだことのほとんどを現場でやらせていただきました。臨床指導者はいなかったのですが,高橋シュン先生はじめ教員の皆さんが臨床現場に出ていらして,私たちは震えながら実習をしていました(笑)。全身清拭は,何人にしたかわからないほどです。なにしろ,3年間で実習時間が5000時間を優に超えていました。休講となればすぐに病棟へ行きましたし,朝はモーニングケアに必ず出て,イブニングケアにも必ず行きます。ですから,卒業したてでも,身体拭きはお手のものでした。
 今の学生たちは,清拭でも患者さんの片腕しか拭いたことがないとか,人形でしか実習をしたことがないと言います。人形と人間では大違いです。また,同じ皮膚でも,外側と内側とではまったく感覚も違いますし,温点や冷点の分布も違います。特に女性の場合は,胸側は羞恥心も伴います。でも,腋の下やお乳の下もきれいに拭いてもらいたいわけです。そういうことを実習しないままで卒業しますから,本当に怖いですよね。ただ基礎教育の場合には,「保助看法」の規制から,無資格者である学生には実際の患者さんのケアをさせてはいけない,という理由もあるらしいのです。また,患者さんの人権を考慮して見学だけにしていると言います。学生時代は見学だけですから事故は起きませんが,卒業して1週間すると実際のケアや医療行為をしなければいけなくなります。そこで事故が起きるんですね。
日野原 アメリカでは,患者さんが医学生のことを「ドクター」と呼ぶんです。だから学生は「ドクター」になったつもりで,猛烈に慎重で,指導者の監督の下に患者さんと接しています。日本のように,無資格だから裁判にどうこうというのではなく,厳格な監督下,つまり指導医が責任を持ってやっているわけです。
川島 教師が責任を持てばいいわけですよね。看護教育も同じだと思うのですが,日本の場合は,おそらく教師も自信がないのだと思います。だから責任も持てないのではないでしょうか。

能力のある医師が責任を持って

日野原 私が看護教育で最も心配しているのは,教授は研究と論文を書くことに忙しく,臨床にものすごくプアな人が多くなってしまっていることです。看護大学の教授の研究には,ナースでなくてもできるような論文が多いんです。臨床能力的な論文じゃないから,ソーシャルワーカーでもできる,栄養士でもできるような研究になっているのですね。
 医学は,研究をやりながらも,外科医は手術をして命を扱っています。内科医は診断をします。その診断が間違っていたら大変ですから,研究をしている内科の教授も,臨床を大切にしますよ。
川島 運転免許取得の場合,仮免許を取ってから路上に出ます。その時は,まだ免許証はありませんから,隣に教官が座って,私たちが下手な運転をしてもすぐにブレーキを踏むというように,教官も命がけですよね。そのように命がけでつきあうことが,臨地実習でも必要なのではないでしょうか。患者さんの命に責任を持つ教員の下で実習をする。そのあたりの法律の仕組みを変えないと,日本の看護教育はだめになってしまうように思えます。
日野原 法律には,例えば「ナースは医師の介助をする」という一文がありますが,介助の意味には,診断まで任せるぐらいの介助もあり得るわけです。私は,法律が変わらないなら,そういった拡大解釈をしています(笑)。そういう意味では,先般の救急救命士による気管内挿管の話もそうです。彼らは,医師よりも上手にしていますよ,だから私は,「医者だからできる」というのではなくて,「能力があるからできる」と解釈していますし,能力がなければ医師であっても行なってはいけないのです(笑)。資格はなくても,能力があればしてもよいと思っていますよ。
川島 日本はやはり法治国家ですから,技術に長けていても,業務としてやってはいけないということがたくさんありますね。
日野原 それが矛盾しているところです,法律は破らないと……(笑)。もしも法律に沿って業務通りに手を引きますと言ったら,住民が黙っていません。怒りますよ。
川島 ずいぶんラディカルなご意見だと思いますが(笑)。
日野原 私は,医療に関する法律は拡大解釈をして,その代わり,医師が責任を持つことだと思います。
川島 医師が責任を持つということについては,大賛成です。
日野原 それから,診断はドクターだけがする,ということも間違っています。看護も,看護診断だとか医師の診断とかに分けて言うのではなく,きっちり本態を示すようなアプローチができるようなものを名づけ,それが正確であるかどうかを検討すればよいことです。看護をする中でも診断能力が必要で,それが臨床能力であって,お互いにチームを作って,一緒にできなければいけない。訪問看護の場合も,医師がいないとできないという法律が,そもそもナースを認めていないものになっています。
川島 そうですね。在宅看護で最も問題になるのは死亡診断ですね。死亡診断は医師がする,となっていますが現場では困っています。
日野原 アメリカでは,先生が行かなくてもいいようになっている。日本人も,そういうことにあまりこだわらないで,拡大解釈をしながら,信頼関係でしていってもよいと思います。
川島 そのために,たくさん看護大学ができて,やっと学歴的には医師と同等になってきたわけですから,ここで実力をつけなければいけませんね。

■日本の医学・看護の将来

感性・想像力を育てる教育を

川島 私が看護教育で思っているのは,臨床実践能力を高めることと同時に,感性や想像力を鍛えるということです。今までの看護教育は,自然科学に偏りすぎていたんじゃないかという気がしますので,もっと文学を読んだり,人間を理解するようなことが何かあってもよいと思っています。
 と言いますのも,夏目漱石の小説や正岡子規の話をしても,きょとんとしてる若いナースがとても多いわけです。これでは高齢者の方たちと向き合って,ごく常識的な話さえできません。また,自分の家庭にお年寄りがいませんから,お年寄りのことを理解しようと思ったら,小説を読むなどしなければいけないのですが,そういう意味でも,私は,看護教育の中に感性を育てる授業を取り入れるべきだと考えています。
日野原 看護の場合,よく「患者の側に立って」と言いますが,その患者が理解できていないものね。
川島 自分で買物に行って,ご飯を作ったり,献立を立てたりということもしていませんから,生活感覚もないでしょう? ファストフードを食べながら卒業してしまいますから,患者さんのことばかりでなく,家族の気持ちもわからないと思いますね。看護は,もう少しそういうところを強調してもいいと思います。
日野原 私もまったくそう思いますよ。ナースがケアする患者には,そういう意味でレベルの高い,知識人が多いんですよ。ですけれど,若い人たちには教養など貧しい人が少ない。これは医師にも言えます。
川島 本当に,驚くほど知らないですね。若い医師を見ているとハラハラします。ものの言い方もわからないし,高齢者に対してぞんざいな口を利くんですもの。

「自分の看護」を語れるナースに

日野原 戦後から50年,半世紀経ったわけですから,ここでもう一度私たちが来た道を,犯してきた過ちを含めてざっくばらんに考えながら,もっと身につく学習の仕方を考えることが必要ですね。知識は耳から入ったというだけでなく,それが血となり肉とならなければなりません。それがなくて,借り物だったり,表層的なものだったりすることが多いと思いますし,そういう意味では,看護教育と医学教育は基本的に刷新されなくてはならないと思います。看護というのは,臨床そのものだからね。それ以外の研究は,ナースでなくてもできるもの(笑)。
川島 本当にそうですね。今,アメリカでは「クリニカルナラティブ」が盛んであると言いますが,「私はこんな看護をしました」と,自分の臨床の体験談を語るナースを,私はたくさん作りたいと思っています。でも,本当にナースは語りません。特にエキスパートナースは。
日野原 語れないんだね。
川島 昔の教育を受けてきた人たちは謙遜して語らない人もいますが,今の40-50代の人は謙遜することはないと思うのですが,語れない。なんとかして,自分の臨床能力を,自信を持って語れるようにしたいですね。看護教育の場で教員が,自分の経験を「こういうことをしたのよ」と生で語ってほしい。かつて自分が教えた学生が出してきた事例や症例を伝えようとするから,学生に伝わらないんです。自分の体験を,自分の言葉で語らなければ,本当の感動は伝わりませんね。

これからの医学・看護のあり方

日野原 ナースの定員を増やすことも,日本の医療界が抱える大きな問題ですね。患者さんの命を守るためには,絶対に定員を増やさないといけません。今の2倍は必要だと思います。それでもアメリカの半分ですよ。国は,他の予算を削ってでもそこに回すだけの融通性がない,どうして強力にやらないのかがわかりませんね。
川島 看護の指導者たちもそこを問題にしています。実際の医療や看護現場では業務量が個人の能力を超えていますから。ゆとりがなければ,相手のことを思いやれないですよね。あれほど労働をしている人たちは,他にいないですよ。
日野原 確かにそうかもしれませんが,アメリカには日本の4倍のナースがいます。でも,日本よりは姿が見えないですね。日本では,ナースステーションにたまっているから,アメリカの人は「日本はナースの数が多いですね」と言うんですよ。
川島 諸外国のナースは,皆がベッドサイドに行ってるんですね。でも,日本では記録を書いていたりする。本当に,日本ではベッドサイドへ行くことが少ないですね。
日野原 そうですね。それから,日本でも専門ナースが出てきていますが,アメリカのナースプラクティショナーは,本当によく知っていますよ。眼底も見ますし,心電図も見るし,エコーも使います。カナダでは,大学病院の一般内科は医師が2人,ナースプラクティショナーが3人という体制で患者を診ています。そうしたら患者は,「ナースプラクティショナーのほうがわかりやすい,親切だ」というので選ぶんですね。その日の診察が終わるとお互いにディスカッションをするのですが,ナースプラクティショナーが医師に「ちょっとわからないのですが,これを見てください」と言うと,医師も「僕が見てもわからないから,循環器の専門医に診てもらいましょう」というようにしています。私は,日本もこのようになればいいなと思っています。
(了)