医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第7回

医療過誤訴訟に代わる制度

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2492号よりつづく

再発防止に結びつかない医療過誤訴訟

 5回にわたって,医療過誤の被害が過誤訴訟によってしか救済されない制度の愚を論じてきた。
 医療過誤の被害が損害賠償訴訟を起こすことによってしか救済されない制度の愚の第1は,この制度が医療過誤の再発防止に何ら寄与しないということである。訴訟制度の目的は「なされた害に対する賠償をすべきか否か」を決定することにあり,過誤を巡る事実関係については,いかにして類似の過誤の再発防止をめざすかという観点とは無縁のところで,「過失と因果関係の有無」を巡って原告と被告が争うという観点からのみ議論が行なわれるのである。再発防止のためにどのような改革を医療に加えるかという「前向き」の観点からではなく,賠償責任を誰にどれだけ負わせるかという「後ろ向き」の観点からだけ事実が審理されるのである。個々の訴訟審理に費やされる膨大な労力と経費とが,再発防止とは一切無縁のところで費やされているのだから,これほど無駄な話はない。

訴訟の結果と事実関係の不一致

 医療過誤の被害が訴訟でしか救済されない制度の愚の第2は,ハーバード・メディカル・プラクティス・スタディの結果からも明らかなように,訴訟審理の結果が医療過誤を巡る科学的事実関係と必ずしも一致しないということである。実際には過誤がなかったのにもかかわらず過誤があったと判断されたり,その逆に過誤があったのに過誤がなかったと判断されたりするのであるが,訴訟審理の結果と事実関係の不一致が「誤差の範囲」で収まるような軽微なものではなく,乱数表で訴訟の結果を決めても変わらないような「巨大な」不一致であることが問題なのである(ハーバード・メディカル・プラクティス・スタディの結果によると,賠償額の多寡と相関したのは患者の「障害の重さ」だけであったという)。

訴訟の結果が「Defensive Medicine」を推奨する

 医療過誤の被害が訴訟でしか救済されない制度の愚の第3は,訴訟の結果(=判例)が「Defensive Medicine(保身医療,防衛医療)」という,科学的にはまったく根拠のない医療の実施を奨励していることである。「ある処置・検査を実施する合理的必要はないとわかっていても,実施しておかなければ訴訟になった時に負ける」と,膨大な無駄が医療の現場で日常茶飯に行なわれているのである。無駄だけで済めばまだよいが,「不必要な医療」は当然相応の確率で新たな事故をも生み出しているはずで,医療側は訴訟に負けずに済むかもしれないが,「Defensive Medicine」ゆえに害を被っている患者も存在するはずなのである。

「訴訟を争うという不幸」

 愚の第4は,過誤の被害者・家族にとって,その負担が著しく重い制度となっていることである。過失と因果関係の立証責任が原告側にあるという負担の重さだけでなく,長期に及ぶ訴訟の間に被害者・家族が体験しなければならない心理的・情動的苦痛は測り知れないものがあり,被害者・家族にとっては,「医療過誤の2次被害」とも言うべき体験を強いられるのである。医療過誤によって重い障害が残ったり,最愛の家族を失ったりした不幸を体験した上に,「訴訟を争うという不幸」をも強制されなければならないのである。
 前回,過誤の被害者家族を代表して全米医療過誤サミットで証言したスーザン・シェリダン女史の「訴訟だけが取りうる手段なのでしょうか? 医療過誤の被害者に残された唯一の救済手段が,情報開示を妨げ,医療制度の変化に一切寄与しないものであるということは,まったく逆説的であると言わなければなりません」という言葉を紹介したが,損害賠償請求訴訟を起こさなければ医療過誤の被害が救済されないという愚かな制度は医療そのものを歪めているだけでなく,不幸にして過誤の被害にあった患者・家族に対しても極度の苦痛を強いているのである。

新しい制度の創設を考えるべき時

 これまで,この連載では,過誤訴訟制度にともなう数々の無駄と矛盾が集積するとどのような事態が生じるかということを米国の実例で見てきたが,米国医療界は現在深刻な「Malpractice Crisis(医療過誤危機)」に襲われ,医療過誤保険の保険料の高騰が医療へのアクセスそのものを損なうというところまで矛盾が深化してしまっているのである。損害賠償請求訴訟を起こさないと医療過誤の被害が救済されないという愚かな制度を無反省・無批判に継続した場合,その果てには現在の米国医療界の姿が待っているのだが,私たちにとって,このような愚かな制度と決別し,医療過誤の被害を救済するまったく新たな制度の創設を真剣に考えるべき時がきているのではないだろうか?
 損害賠償請求訴訟に代わる新たな救済制度として筆者が注目しているのは,愛知大学法学部加藤良夫教授が提唱している「医療被害防止・救済センター」構想である。同教授は弁護士として長年医療過誤の被害者の支援を続けてきた経験から,医療事故・過誤についてその原因調査・再発防止策構築と被害の救済とを切り離して処理することの無駄と矛盾を痛感され,再発防止と被害救済を一体として扱う「センター」の創設を提唱しておられるのである。この構想について関心のある方は,「医療被害防止・救済システムの実現をめざす会(仮称)準備室」のホームページ(http://homepage2.nifty.com/pcmv/)を参照されたい。
この項つづく