医学界新聞

 

連載(29)  微笑の国タイ……(11)

いまアジアでは-看護職がみたアジア

近藤麻理(兵庫県立看護大・国際地域看護)

E-mail:mari-k@dg7.so-net.ne.jp    


2488号よりつづく

【第29回】幸福の価値観

 タイでは,大都会のバンコクでも地方でも,人がいればたくさんの食べ物屋台が必ずあります(写真)。その屋台をてきぱきと切り盛りしている中に,女性が多いことに気づきます。こういうインフォーマルセクターにおける商売では,女性たちがその中心を担っているのです。
 では,男性はというと,3-4人の男たちが屋台の裏の隅っこにかたまり,なにやら日がな1日賭けごとをやっていたりするのです。そして時々,思い出したようにイスから立ち上がり,たらいに溜まった皿をすすいだりして,申しわけ程度に仕事を手伝います。名誉のために言えば,もちろんしっかり働いている男性だっていることはいます。

子どもから教えられたタイ語

 当時,私は暮らしていたアパートの向かいにある屋台に,毎晩のように夕食を食べに行っていました。屋台の女主人は,「うちのダンナは,本当にどうしようもないね」と言いながら,仕事をしない亭主にちらりと目をやり,大きな中華鍋から立ち上る煙と蒸気に大粒の汗を流しています。そしてその背中には赤ん坊,2人の幼い子どもたちには屋台の手伝いをさせていました。
 私は,彼女が調理する様子を眺め,できあがった料理の中から,おいしそうなものを選んで注文します。実は,私のタイ語の発音は,この2人の幼い子どもたちにチェックを受けていたのです。客がすいてくると寄ってきて,下手な発音を聞いては大笑いするのです。しかし,教える時にはちゃんと何か物を手に抱えてきます。お互いに共通のものを目で見ることで,これは「パイナップル」という名前だ,としつこく繰り返すのです。子どもたちが,タイ語のわからない私と一体どうやってコミュニケーションを図ろうかと見つけ出した方法ですが,むりやりに教えられた,と言ってもいいでしょう。

ビルの谷間のバラック

 ある日曜日に,その屋台の夫婦と昼間の果物屋でばったり出会いました。「自分たちの家に来い」と言っているようだったので,2人にくっついていきました。そこは,高いビルに囲まれた空気の澱んだ路地裏でした。トタンを打ち付けたバラック小屋が細い路地に並んでおり,開け放された窓や扉から,みんながめずらしい来客を覗いています。
 10分ほど歩いたところに,その夫婦の家がありました。もちろん中は1部屋だけで,設備といったものは何もありません。外には,何件かで共有している水道の蛇口があり,大きな瓶には水が溜まっています。ここは,住宅地ではなくビル群の谷間にすぎない場所であり,彼らは,そこに勝手に住んでいると言うわけなのです。
 さっき果物屋で買ったばかりのランブータン(透明な甘い実を持つ果物)をみんなでほおばりながら,屋台の亭主が「日本でラーメンはいくらだ?」と聞いてきました。
 高いって言うんだろうなあと思いながら,「100バーツ(当時のレートで500円程度)」と答えました。集まった人たちの驚きの声が聞こえます。タイでは当時ラーメンは,10バーツ(50円)でしたから10倍の値段です。これを日本に置き換えると,日本のラーメンが500円として,他の国では1杯5000円だと言われたようなものです。これは,驚きますよね。

「日本人は可哀想」

 「ああ,言うんじゃなかったな,また日本は金持ちの国だの,月給はいくらだのと聞かれるんだろうなあ」と思っていたのです。するとその亭主は,「日本人は,可哀想だ」と言うではありませんか。そこにいた他の人たちも彼の言葉に同意しています。そして,
 「おまえはタイ語もできるようになったし,ずっとタイで暮らすとよい。ここは,本当にいいところだ。日本になんか帰るな」と,いかにタイがすばらしい国であるかを説き始めるのです。湿気が充満したバラック小屋のある風景の中で,みんなが自分の国のことを自慢するのでした。
 タイでの暮らしの中で,私は,自分の国の文化や伝統に誇りを持つことの大切さ,世の中にはいろんな生き方があって,幸せの価値観もさまざまなのだと言うことに気づいていきました。そして,世界中から貧しいと言われている人々から,「日本人は可哀想だ」と言われたことは,当時25歳だった私には衝撃的な事件でした。
 「貧困層の生活改善」とか「貧困撲滅」と言われ開発途上国への援助が行なわれていますが,果たして私たちの価値基準はその現場の真実をどれだけ反映しているのでしょうか。そして,改善と撲滅の先にあるものは,いったい何なのでしょうか。