医学界新聞

 

【座談会】

質的研究をどうとらえるか

野村直樹
(名古屋市立大学・
人文社会学部)
大滝純司
(北海道大学
医学部附属病院・
総合診療部/司会)
藤崎 郁
(聖路加看護大学・
博士課程)
藤崎和彦
(岐阜大学・
医学部医学教育
開発センター)


■質的研究は仮説生成型

大滝 「質的研究」という言葉が,特に看護系の学会発表などで聞かれるようになりました。そこで今回は,この「質的研究」に焦点をあて,その背景にあるもの,活用はどのように進められるのか,について話し合いを進めていきたいと思います。
 一口に「質的研究」と言っても,その手法にはさまざまなものがあるということが医療関係者はよく整理できていませんし,「質的研究」をわかりやすく整理した参考書も多くはありませんでした。私自身は,1996-97年にかけて,たまたまアメリカのボストンに留学する機会があって,市内の教育病院でプライマリケアを担当している部門に籍を置き,特に医学教育の様子を見て回りました。その頃,医学教育や医療の現場の問題は,量的な研究ではなかなか取り扱えないのではないかということから,「質的研究」がボストンでも話題になっていて,勉強会やセミナーなどが行なわれていました。
 ある勉強会に参加したら,「何でもいいから資料を探してきなさい」と宿題を出されたことがありました。その時に私が図書館で見つけたのが,イギリスの総合医学雑誌「BMJ(British Medical Journal)」の連載でした。その中で,医療の現場での研究に社会学の研究手法が入ってくる時のことが,そのジレンマを含めて漫画的に描かれていました。それを読んで,「わかりやすくて,おもしろい」と思ったんです。
 これは後に『Qualitative Research in Health Care』として出版されたのですが,日本に戻ってきたら,たまたま大学に「質的研究」に興味がある仲間がいたので,勉強会を開いてこの書を翻訳しようということになったのです。それが「週刊医学界新聞」に連載となりました(「質的研究入門」,1999年10月-2001年5月,全19回)。この翻訳作業を通して,「質的研究」にはさまざまな手法があることがわかりました。つまり,私自身はまだそういうレベルなのです。

さまざまな研究方法がある質的研究

大滝 質的研究というのは,もともと文化人類学の分野で使われきた手法だと思いますが。野村さんいかがしょうか。
野村 実は,人類学のほうでは「質的研究」という言葉はありません。社会学の言葉ではないでしょうか。文化人類学では「質的研究」というより,まず「フィールドワーク」ありきです。フィールドに入ったところで,社会調査や疫学的な調査をしようとはします。しかし,それは補助的なもので,長い期間在住してフィールドノートを取るというのが基本的です。その意味では「量的研究」という流れがあるわけですが,「質的研究」のほうに,アメリカも日本も向いていると言われると,ぼくにはなかなか理解しがたいという思いはありますね。
 応用科学の分野は,いろいろなところから方法論を持ってくるのですが,文化人類学者もそういったところで方法論を借りるわけです。センサス(人口調査)を取ろうという時には社会学のやり方や質問紙を使うわけです。今は学際的にさまざまな考え方,方法論が入り乱れていますが,社会学と文化人類学の間では特に交流が昔から盛んだったんですね。
 そう考えますと,看護学独自の見方もあるだろうし方法論もあるというところで,当然どこかから借りてきたものによって成り立つこともあり得るわけです。分野によって事情は違うとは言うものの,いろいろな方法論があるべきではないでしょうか。
藤崎(和) A・クラインマンは文化人類学の中で臨床人類学を立ち上げ,現場での応用的側面を強調しましたが,リサーチという意味では必ずしも質的な方法は普及しませんでした。臨床人類学は,異文化についてアドバイスできるというプラグマティック(実用的)な側面が強いけれど,エスノグラフィック(民族誌的)な方法論を医療の現場に持ち込むのは難しかったようですね。
野村 問題意識としては,量的な方法ではすくい取れない。つまり,慢性疾患は医療では歯が立たない,ということから入った方法論だと思います。慢性の病いの人を治していくというのは,それに対してはどういうことをしなければならないか。それには,彼らの病いの「語り」を聴かなくては医療行為はできない,とクラインマンが思ったからだとぼくは思うんです。
藤崎(和) そういう意味で,疾患構造が急性から慢性疾患に変わっていったり,医療技術も進んではきたけれども,全部を治せるわけではないとはっきりした。あるいは介護,福祉というように情況が変わってくる中で,量的なものの見方ではすくい取れないリアリティを,なんとかすくい取ろうという気運が医療界に広がり,「質的な方法論を」となってきたとも考えられますね。
野村 一方,社会学,文化人類学という社会科学系の分野で,「未開の地」を研究する必要が少なくなった,もしくはやり尽くされた。そこで,人類学者も学校,企業,病院,貧民窟といった現代社会のいろいろな領域に入りこんでいったし,医療の側でも人類学的な考え方が必要となってきたということがあるのではないでしょうか。

研究本来のあり方

大滝 ということは,「よくしなければいけない。今,何か問題がありそうで,何とか解決しなければいけないのだけれど,それが今までの方法では整理できない。となると,どうしたらよいのか」というプレッシャーがあるとは考えられませんか。そういう状況があって,多くの人が質的研究に興味を持つようになった。例えば医学教育では,情報量が膨大になったために学生はやる気をなくし,教授は研究に追われて教育どころではないという状況がある。患者さんも今までとは違う問題を抱えた人が増えている。そんな中で,「どうしたらいいのか」がわからない。今までの研究方法では先が見えてこないという不安が根底にあるのではないでしょうか。
野村 そのあたりがすごくおもしろいと思ったのです。何か問題があるけれど,問題は何なのか。その探し方を探す方法というのがあると思うんです。民族学者の鶴見良行さんは,東南アジアでのエビの研究で有名ですが,彼はその研究のために,東南アジアをバスに乗り10年ぐらい歩いたんですね。東南アジアで養殖されたエビが,日本の消費者の口に入るまでのルートを追ったのですが,彼は東南アジアの流通のメカニズムのみならず,それが民族間の考え方の違いや大きい意味での東南アジアの文化を理解するという,強力な糸口になると考えた。そして「エビ研究会」と言われるものを立ち上げて,すばらしい研究に取りかかったわけです。何が問題なのかを探す方法論もあるけれど,実際に「エビだ!」と気づいてから,「じゃあどうしようか」という方法論もあるという例ですけど。
藤崎(郁) 「エビだ!」と思ってから,もう一度現地に行って調べ始めたのですよね。つまり,まず先に「何か研究しなければ」とか,方法論ありきで研究が始まったというわけではないということ……。
野村 そうですね,初めは直感だったかもしれませんが,改めてフィールドに帰ると問題意識が定まっていますから,またその観点から,ワーッと見えてくるんです。
藤崎(郁) それは,エビでなくてもよかったのかもしれないということですね。鶴見さんにとってのエビのように,何か世の中のこと,世界と自分との関係について深く考えるきっかけとなるテーマと出会い,そこから何かが見えてきて,多面的な理解が進み,見えていなかった側面も見えてくることが研究という営みの本来のあり方と言えるのではないでしょうか。

フレキシブルな「質的研究」

大滝 この『Qualitative Research in Health Care』の中に,「質的研究方法の特徴は,仮説検証型ではなくて仮説生成型の研究であるところだ」と書いてあるんですね。ここを読んだ時に,何が問題かということすら整理できていないことを検討するのに役立つ方法なのかなと思ったわけです。それが翻訳しようとしたきっかけです。
 野村さんのお話のように,「何がなんだかわからないままにフィールドに入ってみる」というやり方もあれば,「どうもこのあたりに問題がありそうだ」と,ある程度のことがわかってから研究を始める,それに適した手法もあるということですね。
藤崎(和) いろいろな切り口で物事を見ないと,事実は見えてこないということが大事だと思います。例えば「肝硬変は肝硬変だ! 誰が見ても肝硬変なんだ!」という感じがあるけれど,そうではない捉え方が質的な方法としてあると思うのですが。
藤崎(郁) 患者さんのQOLなどのように,人の主観的な感覚や価値,あるいはその人にとっての体験の意味やその場で現実に起こる相互作用などといったものを深く探究していくには,質的なアプローチがよいのかもしれません。量的な研究では,どうしても研究を始める前に仮説をきっちりと組み,その範囲でしか結果を論ずることができませんが,質的な研究では,もちろん限界はありますが,そのあたりがかなりフレキシブルです。
野村 質的な研究というのは,かなりの幅があって,量的研究に近いものからポストモダンなものまである。そして,それぞれにいいところもあるし,その間を行ったり来たりすることもあり得ると思うんですね。ぼくは修士課程の時に,アメリカ人と日本人の「批判の仕方のコミュニケーション」という量的な研究をしたんですね。統計を使った研究でしたが,おおまかなコミュニケーションの様式やスタイルが明らかになり,量的研究もすごく役に立つんです。例えば,相手次第で日本人は批判の仕方を変えましたが,アメリカ人は変えませんでした。その時には,日本人はセンシティヴで,アメリカ人は鈍感なんだって思わされました。しかし,日本人は不満の種類によって相手に対する言い方を変えていないのですが,アメリカ人は,自分が被害を受けた時に相手を批判する時と,自分の期待に添わないから相手を批判する時,自分とは考え方が違うから批判する時など,批判の種類が違うと,きっちり批判の仕方を変えていた,ということがわかってきました。そこから,ぜんぜん予期しない結果が出てきたので,おもしろい学習経験でしたね。

■なぜナースは研究をするのか

グラウンデッド・セオリーと質的研究

大滝 質的研究は特に看護でさかんに行なわれていて,その中でもよく使われている手法や流れがあると思います。看護と質的研究に関して紹介していただけますか。
藤崎(郁) 日本では,少なくとも10年くらい前までは,質的な手法を用いた研究論文はなかったと思います。その当時はまさに量的な研究,因子分析やパス解析といった多変量解析を用いた研究が原著として採用されていた時代だったと思います。それが5-6年前ぐらいからでしょうか,質的な研究がかなり評価されるようになり,原著論文などにも散見されるようになってきた。ただ,その質的な研究の中で主流を占めていたのは,グラウンデッド・セオリー・アプローチ(grounded theory approach;以下,グラウンデッド・セオリー)だったという背景があります。日本でこの方法論が最初にきちんと紹介されたのは,1992年に出版された『グラウンデッド・セオリー-看護の質的研究のために』(下表,参考図書(1))でしょうか。これは,社会学の象徴的相互作用論をもとにして生み出された質的な研究方法で,看護の場に起こる現象を特定し,ナースの看護実践そのものの意味や構造を知ることができるために,看護の分野では.最適な研究方法と評されました。導入が最初だったためか,「質的な研究」と言えば,「グラウンデッド・セオリー」という形でとらえられ,今もそう考えている人たちは多いと思います。
 その後3-4年してでしょうか,看護研究においても「現象学的な方法」が注目されはじめ原著も掲載されるようになり,最近では「ライフヒストリー研究」という考え方も紹介されるようになってきました。質的研究の書も1999年あたりから多くなり,看護の中でも市民権が得られるようになってきた。先ほど野村さんがおっしゃったポストモダンの波が,やっと看護のところにも届いたかな,という状況です。
藤崎(和) 補足しますと,医療界の中では看護が最も先に質的な研究法をとり入れています。質的研究は1990年から入ってきた(「看護研究」,特集:グラウンデッド・セオリー・アプローチ;文化人類学的研究方法・現象学的アプローチ,1990年)のですけれど,実際に使われ出したのは1994-95年ぐらいです。そういう意味では,日本に紹介されて5-6年して,ようやく1つの研究方法として認知されてきたということですね。ただ,アメリカの看護界をみても,「質的研究=グラウンデッド・セオリー」という感じが強かった時代がありますし,日本でも,「質的研究法とはグラウンデッド・セオリーのこと」と思っている人も多いようです。
藤崎(郁) 看護研究者の中には,質的研究として括られているさまざまなタイプの研究手法について,混同や誤解をされている方もいます。質的研究の場合,「手法」というよりも,フィールドやデータと向かい合う上での距離とかスタンスそのものが,いわゆる研究手法上の決め手になってきます。グラウンデッド・セオリーというからには,患者さん20-30人のデータを取るべきだとか,現象学的アプローチなら2-3人でいい,といった短絡的なハウ・ツーの問題ではないのです。グラウンデッド・セオリーと現象学的アプローチでは,そもそものスタンスが別のもので,単に対象者の数や参与観察をしたかどうかという手続き上の違いではないのです。
藤崎(和) グラウンデッド・セオリーというのは,どちらかというと手続きが細かく,うるさい研究法であって,手続き優先,お作法優先という側面はあると思います。
藤崎(郁) 確かに手続き優先とまでは言えないかもしれませんが,そのような側面はあったと思います。グラウンデッド・セオリーの手法のよい論文より先にグラウンデッド・セオリーの解説本が入ってきた。結局,それだけが一生懸命に読まれたということが,要因の1つになったのではないかと思っています。

ナースが研究をするということ

野村 ちょっと話が逆戻りしますが,それぞれの分野にはイデオロギーがあって,なぜ研究するのかという,それなりの思想,価値観があります。例えば文化人類学は,まだ世界の各地に「未開の地」が残っていた時代には,西洋化,近代化が進む中で消えていく部族,民族の習慣や宗教など,「今しか書いて残せる時はない」という価値観で研究が始まったわけです。そう考えますと,基本的なことなのですが,「なぜ看護者は看護を研究するのか」,一見わかりやすいようでわかりにくいのですが。
藤崎(郁) 痛い質問かもしれない(笑)。現場の看護者が研究をしたい,修士や博士課程を出て研究者になりたいと思うことの一番の目的は,「患者さんのために」という強い動機なのですね。看護研究をすることによって,患者さんによいケアができるかもしれないという思いがあるわけです。ケアの質があがっていることを確かめるために研究をする,患者さんのためによりよいケアとは,ということを探索するために研究することはわかるのですが,研究をしたからよいケアができるようになるという保証は,また別の問題です。でも,看護職の強い思いというのはそこにある。換言すれば,「よいケアをしたいから研究をしなければ」ということになります。
藤崎(和) 「患者さんのため」であるなら,研究である必要はないのかもしれない。でも看護界には,専門職集団として,高学歴化,大学化,大学院化していく上で,看護もサイエンスであって,リサーチもある。プロフェッション集団として「ストラテジーとしての看護研究をやるのだ」という歴史的な事情もあったわけです。
藤崎(郁) 臨床の看護職者にとっては,研究と勉強がほとんど同意語になっているように思います。臨床家と研究者は違う職種と割り切られているのではなく,臨床にいる人たちががんばって修士号をとり,博士号もめざすという状況もあって,研究することそのものが「お勉強」になっている。
藤崎(和) ある意味でアカデミズムの生産者の側ではないのかもしれませんね。消費者の側というか,教えてもらう側にいて,一生懸命がんばって研究をしたから何か新しいことを学べたという感じで,新しい知を創るという生産者のスタンスではない。
藤崎(郁) リサーチの「結果」が問題ではなくて,「研究すること」がとても大事なことで,達成感が重視されてしまう,という傾向はあります。それも,「独習」と言ってよいのでしょうか,まず量的な研究に取り組み,χ二乗検定を用いてみる,その次は多変量解析で,というような流れがあって,その次にはグラウンデッド・セオリーをやってみよう,今度は現象学的な方法で,さらにライフヒストリーをやってみようというような方法論の目新しさにひかれた取り組み方が展開されていく。
藤崎(和) そこで,「あなた,T検定も使ってないの?」とか,「大集団が対象なら,ちゃんと多変量解析をしなければだめ」とか,とんちんかんな指摘もされてしまう。
野村 ああ,そうですか(笑)。看護は,臨床というしっかりしたフィールドを持っているわけです。異文化というフィールドがあったから民族学が成り立ったように,看護に臨床の現場があるということはすごいことですよね。
藤崎(和) 確かにそうなのですが,例えば,文化人類学者は,研究フィールドの外から来るからこそ,いろいろなものが異文化として見えてくるわけですが,看護の場合には,研究者である看護職者はその現場にどっぷりと浸かっています。その中でいろいろな視点で見ることができるかどうか,「今日から質的研究をします」と言っても,それは難しいのかもしれませんね。

●「質的研究」に役立つ20冊(参考図書一覧)
(1)質的研究実践ガイド-保健・医療サービス向上のために:大滝純司監訳,医学書院,2001年
(2)グラウンデッド・セオリー:樋口康子・稲岡文昭監訳,医学書院,1992年
(3)看護における質的研究:近藤潤子・伊藤和弘監訳,医学書院,1997年
(4)質的研究の基礎-グラウンデッド・セオリーの技法と手順:南裕子監訳,医学書院,1999年
(5)質的研究の挑戦:舟島なをみ著,医学書院,1999年
(6)ナースのための質的研究入門-研究方法から論文作成まで:野口美和子監訳,医学書院,2000年
(7)ベナー/ルーベル現象学的人間論と看護:難波卓志訳,医学書院,1999年
(8)会話・言語・そして可能性-コラボレイティヴとは? セラピーとは?:野村直樹・青木義子・吉川悟訳,金剛出版,2001年
(9)ナラティヴ・セラピー-社会構成主義の実践:野口裕二・野村直樹訳,金剛出版,2001年
(10)人生を物語る-生成のライフストーリー:やまだようこ編・著,ミネルヴァ書房,2000年
(11)現場(フィールド)心理学の発想:やまだようこ編・著,新曜社,1997年
(12)フィールドワークの技法と実際-マイクロ・エスノグラフィー入門:箕浦康子著,ミネルヴァ書房,1999年
(13)闘いの軌跡-小児がんによる子どもの喪失と母親の成長:才木クレイグヒル滋子著,川島書店,1999年
(14)語りかける身体-看護ケアの現象学:西村ユミ,ゆみる出版,2001年
(15)方法としてのフィールドノート-現地取材から物語作成まで:佐藤郁哉・他訳,新曜社,1998年
(16)フィールドワークの経験:好井裕明・桜井厚編,せりか書房,2000年
(17)社会学研究法・リアリティの捉え方:今田高俊編,有斐閣,2000年
(18)見えないものを見る力-社会調査という認識:石川淳志・他編,八千代出版,1998年
(19)東南アジアを知る-私の方法:鶴見良行,岩波書店,1995年
(20)グラウンデッド・セオリー・アプローチ:木下康仁,弘文堂,1999年

■質的研究のフィールド

他分野との共同研究の可能性

大滝 医療の現場をフィールドにして,医療者が質的研究をする場合に,果たして自分の世界と言いますか,文化を切り替えて研究できるのかということは,大きな問題でしょう。研究者と臨床家は違うのか,同じなのかという話ともつながりますが,看護の場合,少なくとも研究者は自分のいる場所ではないところをフィールドにして研究をするパターンも多くなってきているように見えるのですが。
藤崎(郁) 少なくとも,研究者が研究を行なう場合はその通りだと思います。大学院生が学生という身分になって,自分がいた職場に調査に入るということもありますが,学会誌に掲載された論文を見ていますと,1か所ではなく違うフィールドを何か所か対象にしている場合もあります。
大滝 ところが,臨床のナースが行なう研究は,自分が所属している場をフィールドにしている,ということですね。
藤崎(郁) そうですね。もちろん,そのほうが手っ取り早くフィールドを得やすいという事情もありますし,「目の前の患者さんによいケアをしたい」という思いがベースにありますので,必然的にそういうことになるのだと思います。
野村 そういう場合に,他の分野の人と協力し合うことはあるのですか。
藤崎(郁) 社会学関係の人と一緒に,ということは最近見られますね。
大滝 個人的な考えですが,他分野の方にも入っていただいて,その視点から自分が見ているフィールドを見てもらう,いろいろな分野の人と協力しながら研究するということを,看護の研究手段としてもっと広げていってよいのではないでしょうか。
 質的研究とはちょっと離れますが,北大では工学部の方が,いわゆる応用工学の面から,医療・福祉の研究を進めています。救急センターをどこに作ったらよいのか,携帯電話をハンディキャップのある人にどう役立てるのかなど,いろいろなことをテーマに大学院生が研究しています。質的研究を専門にしている人たちにも,医療・福祉の分野に興味を持っていただけるのではないでしょうか。
野村 ぼくの大学にも芸術工学部というのがありますが,デザインですとか,美といったまったく違った軸で何かを言われるというのは,おそらく看護で汗をかいている人にとっては思いもつかぬ光のあて方だと思います。
藤崎(和) うまくフィールドを提供していけば,他分野の人たちに入ってきてもらえる余地はたくさんあると思いますね。
野村 大滝さんがボストンへ留学されていた時に,医療の現場はどの程度フィールドとして開かれていたのですか。
大滝 あまり正確には認識していませんでしたが,冒頭に話しました勉強会には,おかしな言い方ですけれど,誰が医者だかわからない,という雰囲気はありました。はじめは「医師の集まり」だと思っていたのですが,ディスカッションをしているうちに,「あ,この人はナースだ」とか,「この人はどうやらソーシャルワーカーらしい」,「この人は社会学者だ」とわかってきました。最初はそれぞれの考え方の枠組みが違うせいか,何か擦り合わせのような会話があるのですが,議論が深まっていくうちにお互いの共通言語ができていくという場面が何度もあって,「ああ,いろいろな分野から集まっているんだな」と実感しました。

研究をする姿勢とは

藤崎(郁) 質的研究には,ナースと患者さんとの相互作用に着目し,ケアという名目で,何がどのように行なわれているのかを見ていく研究もあれば,患者さん自身の生きる意味を対象とした「現象学」と言われるようなスポットのあて方もあります。ただ,どれも誰でもすぐにできるような研究手法ではありませんし,きちんと勉強しなければいけないと思うのです。例えば,人類学ですとか社会学の質的研究手法を使った質の高い研究論文を,自戒を含めて言えば,少なくとも看護研究者はもっと読んだほうがよいでしょう。研究の手続きや手法を教わることも大切ですが,よい作品を読むことも大事だと思います。その部分というのが,看護界では修士や博士レベルの看護教育の中で,個人に任されてしまっていますが,人文系の大学とか大学院教育では,どのように訓練がなされるのでしょうか。
野村 ぼくは,好奇心から入ることが大切だと思っています。ですからゼミに参加する人の必要条件は,好奇心としています。いま9人の学生がいますが,8人が外国でフィールドワークして日本に帰ったところですけど,好奇心さえあれば,いろんな手法を学生は編み出します。インターネットなどを通じて現地へ行く手段を探したりしますが,好奇心がなかったらしません。「私はそれを勉強したくて仕方がない」となれば,そこから何かが始まる。だから,最初の1年は,何が自分にとっての好奇心なのかを問うてみるようなことをしています。
藤崎(郁) そこのプロセスにおいては,ディスカッションですとか,文献を探したり,話を聞くということをしているのですか。
野村 共通の読み物と,そこから触発されるものとして,「おもしろいと思った本を5冊持ってらっしゃい」と言うと,9人が9通りの違ったものを持ち寄ります。
藤崎(和) それは,選んだ本について,「これはこんな本です」とレポートして報告するという方法ですか
野村 そうですね。例えば,ベトナムのバッチャン焼という焼き物に興味を持った学生がいます。バッチャン焼は日本でも知られており,ベトナムからきたファッションの一部になっているものですが,そうなるとベトナムという国についてだけでなく,日本の流行雑誌を追うことも必要になる。さらに,彼女はベトナム語の勉強を始めました。そのように,さまざまなことが関連してくる。彼女にとってはバッチャン焼の魅力が第1でしたので,ハノイの北東25キロにあるバッチャンという村に行く手だてを考えるというようになったのです。
藤崎(和) 現場に対する関心というのは,ある意味でナースは非常に大きいはずです。そこを知りたいというモチベーションがないと,やはり調査はできない。しかし一方で,ある種のスタンスも取らないと見えてこない部分もあるわけで,フィールドの対象に対して距離を取って見ることも必要になるわけですね。

■多くの研究の可能性を持つ質的研究

質的研究に必用な知識

野村 看護の臨床過程には,さまざまなドラマがあります。ですから,看護という世界は,ストーリーがすごく豊かになる可能性がある。自分を入れない限り,その場限りだし,そのテーマ限りのもので連続性がない。自分が入ることによって,それに連続性を持たせることができ,今年やっても,来年やっても,自分がいる。そこでやはり,自分というものの評価者,観察者,行為者,好奇心を持った1人の人間としての存在を,どうやってフィールドノートに記述していくか。その研究の中に,どう自分を埋め込んでいくか。そういうところがないと,研究としてつながりにくいでしょう。
藤崎(郁) ナースが身を置いている場というのは,患者さんだけでなく自分を含んだ世界ですので,その意味ではフィールドワークを主体とした質的研究の可能性はとても大きなものがあると思います。ただし,その時に,「私」というものを書き込むことはおかしい,というとても間違ったルールが看護界ではまだまかり通っています。
 先だってある論文を書いたのですけれど,私がどうやってこのフィールドに入ったのかや,臨床の場で,ナーススーツを着用したこと,「研究者だけど看護婦だから,何かつらいことや,苦しいこと,痛い時があったら言ってくださいね」と自己紹介をしたことを研究方法の中に入れました。ところが,「それは要らない」とレフェリーから言われました。私としては,そういうことこそが質的な研究の中では問われるし,データや分析の質を左右する要因であると考えたのですが,現状では,学士・修士・博士課程の論文の中に「I」とか「we」という主語を書いてはいけないという指導がなされる現実があります。
野村 それはまさに,質的研究というものを量的研究のカウンターパート(対の一方)としてとらえているからですね。その体系の中にいる限り,違ったパラダイムとしてとらえられないから,無理ですよね。
藤崎(郁) 質的な研究をすればするほど,「調査者」としての自分と協力者である「対象者」とが分けられなくなってくるという面があります。自分がそこに及ぼす影響までを直視せざるを得なくなるわけですが,それをどう記述の中に盛り込んでいくのか,「私」のかかわりをどう書いていくのかという点が難しいところですね。
野村 その現場における調査者の実際のかかわり方を示さないと,人の生き方がそこにあるわけですから,そういう記述は必要ですね。それを看護という研究分野がしなかったら,看護研究はいったい何をやるんだ,と思ってしまいます。
藤崎(和) 看護者は質的研究にちゃんと取り組むのなら,そのもとになっている社会学や人類学の勉強をする必要があるように思います。

臨床と研究のコラボレーション

藤崎(和) 看護研究をするには,ある程度腕力も必要です。好奇心と熱意は,ナースに敵う人は少ないかもしれないけれど,その世界で研究としての部分をいろいろと切り取ってくる腕力ですとか,それを言語化する腕力を身につけるトレーニングは必要になりますよね。
藤崎(郁) ナースは,まったくと言ってよいくらい研究のトレーニングはされていません。近年,看護系大学が増えてきて,「卒論」というものがあるために論文を書く能力が必要とされはじめたものの,専門学校ではトレーニングはないですね。フィールドワークはもちろんありませんし,量的な研究にしても自分で研究ができるまでのトレーニングは受けていないと思います。
野村 ですけど,臨床のナースと研究者が対等の立場でコラボレイトすることができたら,その部分はカバーできるのではないでしょうか。そこでは,研究の専門家が臨床の人の声をかき消さないようにすることが大事になりますが。
藤崎(郁) ああ! それは大事ですね。
野村 コラボレイトという言葉の意味はそこだと思うのですけど,それが可能になった時に,研究者の願う豊かな物語が始まると思いますね。おそらく,研究者というのは「無知の姿勢」になれないところに,私は問題があると思いますが。『会話・言語・そして可能性-コラボレイティヴとは? セラピーとは?』(参考図書(8))を読んでいただければありがたいですけど,研究者の方がわかっていないという場合が多いのです。そして,大学院に行けば行くほど見えなくなる。なんで見えなくなるかと言うと,私たちは覚えたことを「忘れる」ということができにくくなるからです。忘れると言うのは,実は学習なのですね。バカだから忘れるというのとは違って,トレーニングが必要な学習です。その「逆学習」ができない専門家が,本当に困った事態を起こしているという現状があります。ただ,専門家でもその専門性を生かせる部分があります。それは,どうやって論文を書くかとか,どういう言語を使えばよいのかというあたりで専門性を発揮できるところです。
藤崎(郁) 専門家と言えば,クライエント本人がまさにそうですよね。研究者の中にも,そこから学ぼうとして,とてもすばらしい研究をされている人も出てきています。今までは「対象者」や「研究協力者」とされていた人たち,例えば小児がんの子どもを持つお母さんこそが専門家であり,その方たちに聴くという姿勢を貫いてまとめられた書(参考図書(13))など,医療者にとってとても参考になりますね。

看護の枠を超えての発表も

大滝 いま話に出ましたコラボレーションのことでは,特に研究と臨床の現場,他の領域とのつながりといったものが大切だということ。それと関連して,用語など研究に必要な基礎知識を磨かなければならない,という指摘のように思います。
 それらを理解するためには,やはり関連した本を読んで勉強をするということも必要になるでしょう。確かに,1冊で全部済まそうというのでは調子がよすぎるかもしれませんが,よい論文なのかどうかがわかるような必読書が,5冊ですとか10冊あればよいと思いますね。
藤崎(郁) 必読書に加えて,それぞれの手法のお手本になるような論文をあげたほうがよいのかもしれません。
大滝 それから,発表の場のルールについても,もう少し広く認知されるような態勢を整えることも重要になりますね。それはまず看護のほうから,コミュニケーションですとか,教育とかいった内容で始める。
野村 もう自分から違う分野へ超えていって,他の学会で発表できるだけのものにしていけばよいのですよね。
藤崎(和) そうですね,看護という枠の中で考えることはなく,社会学の関連学会などで発表してもよいのですからね。
野村 質的研究というのは,経験,つまり,「人」に近い研究法であって,概念を理解したりとか仮説を検証するのにはちょっと近すぎるかもしれません。レンズみたいなもので,あるところに焦点が合わないことはある。でも,質的な方法とか,フィールドワークは,人を理解するのには非常によいレンズと言えます。今,自分の目の前にいる患者さんが何に苦しんでいて,どのようなことをしたいと望んでいて,自分の人生をどう考え,同じ病気にかかっている人を見てどうしたいと思っているのか,といった問題には,アンケートには限界がありますから,その部分で質的研究は多くの可能性を持っていると言えると思います。
大滝 質的研究の手法はさまざまにあって,多くの研究可能性がある,としたところで,本日の座談会を結びたいと思います。今日は長時間にわたり,どうもありがとうございました。