医学界新聞

 

「統合失調症」についての個人的コメント

中井久夫(神戸大学名誉教授・甲南大学教授)


 「精神分裂病」の名を改めることは以前から日本精神神経学会で決められていたが,「スキゾフレニア」「クレペリン・ブロイラー症候群」「統合失調症」の中から「統合失調症」が選ばれた。本年8月に横浜で開かれる世界精神医学会で公表して本決まりになるという。しばらくは過渡期で2つの用語が並べて書かれるだろうが,世代が新しくなるとともに新しい用語が浸透していくのが趨勢であろう。

 選ばれたいきさつを詳しくは知らないが,患者・家族の希望が強かったと聞いている。一面大の新聞広告を打って広く社会に意見を求めたのもこれまでになかったことで,プロセスをまず評価したい。
 なるほど「スキゾフレニア」は国際的な呼称に足並みを揃えるという点では他に抜きんでている。しかし,患者,家族,一般公衆には呪文のように感じられるであろう。それに,形容詞にするとどうなるか。「スキゾフレニア的」「スキゾフレニック」,いずれも冗長に過ぎないか。おそらく時間の経つうちに「スキゾ的」「S的」となっていくのではないか。それならば名称も最初から「スキゾ障害」とすればよいのではと思って提案してみたこともある(『最終講義』みすず書房,1998年)。もっとも,「スキゾ的」ということばは,フランスの哲学者がすでに少し違った意味に使っていて,勉強している精神科医は知っているから,それが妨げになるだろう。いずれも,公衆から遊離しているという批評は甘受せねばならなかったところだ。
 「クレペリン・ブロイラー症候群」は,創見者の名をとったもので「ハンセン病」と同じ手法である。これは「ブロイラー」がカナ書きでは食用鶏と同じであるから困ると,患者・家族側からの他に食用鶏飼育業の協会から異論があったと聞いている。もう1つ,クレペリンの概念は狭く,ブロイラーの概念は広い。だからドイツの大学の回診ではMorbus Kraepelin(Morbusはラテン語で「病い」)とMorbus Bleulerということばを使って区別しているそうである(木村敏氏の教示による)。この場合も形容詞に困り,おそらく「KB病的」となっていくのではないか。
 「統合失調症」については,異論はいろいろありうるだろう。躁病もうつ病も統合の失調ではないか。神経症や人格障害はどうなんだ,というふうに。また,認知行動障害として精神障害をとらえる見方に偏りすぎていないかという考え方もあるだろう。
 しかし,私はいま,全体として進歩であると評価する立場に立つ。
 いかにも,統合失調はこれまで「分裂病」と呼んできたものに限らない。しかし,では「不安」は「不安神経症」に限られたものであるか。「糖尿病」など,尿に糖が出るかどうかは第二義的なことではないか。しょせん病名とはそういうものと割り切るしかなく,あまりな見当はずれや社会的に差別偏見を助長するものを避ければよいのである。「精神分裂病」はSchizophreniaの「直訳」とはいえ,日本語にすると,多重人格と受けとられかねない。見当はずれと偏見助長の2つの罪は,やはりまぬがれなかったであろう。精神科医の神田橋條治氏は,精神を無理にでも統一しようとして失調するのだから「精神統一病」と名づけるべきだと主張していたが,これは単なる逆説ではなく,「統合失調症」の思想を先取りしていた。

 「統合失調症」とともに,この障害のとらえ方の重心は,はっきり機能的なものに移った。この重心移動は当面は名目的なものであるかもしれないが,やがてじわじわと効いてくるだろう。
 「失調」は,「発病」「発症」の代わりにすでに使われていたことばである。患者・家族への説明,あるいは治療関係者同士の会話では日常語であったと言ってよい。「失調」は「精神のバランスが崩れる」という意味である。「回復の可能性」を中に含んでいることばである。「希望」を与えることばは,患者・家族の士気喪失を防ぐ力がある。治療関係者も希望を示唆することばを使うほうが,治療への意欲が強まるだろう。
 実を言うと,カルテに,診断書に,文章に「精神分裂病」と書くたびに,これは書く私の心臓にもよくないと思ったものであった。患者・家族に告げる時には「健康なところもいっぱいあるよ」という当たり前のことをわざわざ付け加えなければならなかった。
 患者・家族の身になってみると,「精神分裂病」が絶望を与えるのに対して,「統合失調症」は,回復可能性を示唆し,希望を与えるだけでなく,「目標」を示すものということができる。
 「統合」とは,ひらたく言えば「まとまり」である。まず「考えのまとまり」であり,「情のまとまり」であり,「意志のまとまり」である。その「バランス」を回復するという目標は,「幻覚や妄想をなくする」という治療目標に比べて,はるかによい。まず「幻覚・妄想をなくする」という目標に対しては,患者・家族はどう努力してよいかわからなくて,困惑し,受身的になってしまう。これが病いをいっそう深くする悪循環を生んでいたのではないか。これに対して,「知情意のまとまりを取り戻してゆこう」という目標設定に対しては,患者ははるかに能動的となりうる。家族・公衆の困惑も少なくなるだろう。患者と医療関係者との話し合いも,患者の自己評価も,家族や公衆からの評価も,みな同じ平面に立って裏表なしにできる。誰しも時には考えのまとまりが悪くなり,バランスを失うことがあるはずであるから,病いへの理解も一歩進むだろう。
 また,治療関係者間のコミュニケーションも,この比重移動によって格段によくなるのではないか。看護日誌も幻聴や妄想の変動を中心にすることから,「考えのまとまり」をたずね,「感情のまとまり」「したいこと(意志)のまとまり」をたずねるほうが前面に出てくるだろう。そうなれば,医師や臨床心理士,ケースワーカーとのコミュニケーション,あるいは家族との語り合いも,同じ平面に立ち,実りあるものとなっていくと思う。
 せっかく名を変えるのである。これは名を変えることの力がどれだけあるかという,1つの壮大な実験である。実験であるが,同時にキャンペーンでもある。できるだけ稔りあるものにしたいと思う。

 時間を50年遡って,垢だらけで来る日も来る日も病棟の片隅に突っ立ったり,うずくまっている患者たち,隔離室でまるで軽業のような極端な姿勢を何年もつづけている患者たちを「分裂病」の典型とみていた時には「統合失調症」という名称は思いつかなかったであろう。
 確かに何かが変わった。「分裂病の軽症化」は,すでに1960年ごろから,その徴候があった。軽症化の原因にはあれこれがあげられているが,一般に物事の改善は何か1つの突出した変化では起こらず,多種多様な条件が次第に揃っていくことによって起こる。手さぐりもあり,迷いもあり,逆流があっても,患者,治療者,家族,公衆の改善への努力と,環境の変化があってのことであろう。それが逆戻りしないように,私たちは気を抜かないでいこうではないか。
 そして名称が楽観主義的に変わっても,「失調」の時の恐怖――「それに比べれば神戸の地震など何でもない」ような恐怖――,そしてこれに続くやりきれない疲労,さらに長年病む者に起こる心の萎縮(ちぢかみ)を決して軽視しないようにしたい。
 私たち医療関係者は,「統合失調症」患者の知情意の「再統合」を妨げる要因を見定めて,できるだけそれを取り除いていくことが大きな課題となってくる。もう1つの大きな課題は,患者の病いにともなって普段よりこうむりやすくなっている心の傷を最小限にすることである。これは医療関係者とともに家族,公衆の課題でもある。
 最後に,軽症化と言っても,すでに慢性状態に入り込んだ方々の失われた時間を取り戻すことはできない。「失調」を起こす人の全部が軽症にとどまるという保証もまだない。せめてこの人たちの生活の質(QOL)を高めていくこともまた,名称変更の際に忘れては決してならない課題である。
※「精神看護」2002年3月号(Vol.5, No.2,2月27日発行)より転載