医学界新聞

 

〔連載〕How to make

クリニカル・エビデンス

-その仮説をいかに証明するか?-

浦島充佳(東京慈恵会医科大学 臨床研究開発室)


2476号よりつづく

〔第25回〕ストップ・ザ・狂牛病(9)

 最近,雪印食品が,オーストラリアから輸入した牛肉に日本産のラベルを貼る,つまり虚偽の報告により政府から助成金をもらっていた事件が発覚しました。一連の調査によると,この不祥事は狂牛病問題以前からの問題であり,かつて雪印乳業が起こした食中毒事件と併せて考えると,企業体質の問題が背後に潜んでいることは明らかにみえます。しかし,これは雪印だけの問題でしょうか? 過去を振り返った時,企業倫理の問題で,人々の健康に危害を及ぼしたことは多々ありました。どの企業も多かれ少なかれ人々の健康を何らかのリスクに曝す可能性があるのです。

エビデンスの正しい理解とエビデンスを伝えること

 医療は病気を治す立場にありますが,かえって健康を害するリスクも併せ持ちます。もちろん医療において「やってみないとわからない」部分が多いのは事実です。小さなリスクは無視されがちです。いつも適切なエビデンスがあるとは限りません。しかも,クリニカル・エビデンスの正確性と妥当性についてまで,患者側に理解してもらうのは容易なことではありません。それでも,EBM概念の普及により,医療の現場では,治療のリスクとベネフィットを説明するのが当然の風景となってきました。これは進歩だと思います。
 狂牛病騒動では,最初に国が「善処するから心配するな」という一昔前の医師にありがちな態度で国民に臨んだために,かえって国民の怒りをかい,企業に痛手を被らせたのではないかと思います。エビデンスを単なる数値ではなく,正確性と妥当性を付して誠意をもって説明することが大切です。エビデンスを正しく理解すること,このことが人々に病気やさまざまな困難に立ち向かう勇気を与えるはずです。
 しかし,エビデンスの伝え方を間違うと,勇気を与えるどころか,パニックを引き起こしてしまいます。私の想像ですが,パニックを引き起こしやすい状況として,
(1)蛋白が感染するという今までの常識とは異なる伝染病であること(新しい感染症である)
(2)伝播経路がよくわかっていないこと
(3)発症すると致死的であること
(4)「今後vCJD患者がどの程度増えるか」などの不確実要素が強いこと
(5)牛肉という身近なものが感染源として浮かび上がったこと――ほとんどすべての人がアットリスクである
(6)人々は,狂牛病問題に関して政府および企業に対して猜疑的であること,
 などが根底にあるのではないでしょうか?
 1999年にマレーシアで新しい脳炎を起こすニパウイルスが発見された時,香港で鳥から感染するインフルエンザが発見された時,旧ソビエトで炭疽菌感染症がみられた時,人々は不必要なまでに家畜を焼き払いました。それぞれの集団パニックにおいて,先にあげた事項と共通する部分が多いように思います。つまり,エビデンスを伝えた時,パニックを起こしそうな状況はある程度予測可能ということです。その際,単に報道機関の質問に立ち話的に答えるのではなく,しかるべき専門家が政府と十分意見を交わした上で,国民に向けて時間をとって語りかけるべきではないでしょうか?
 少なくともアメリカ大統領の視線は国民に向けられています。癌を専門とする臨床医であれば,患者側へのエビデンスの伝え方には細心の注意を払うはずです。
 しかし,そのようなアメリカでも失策はありました。エイズに対するレーガンの政策は「セックスについては語らず,ワクチンができるのを待とう」というものでした。専門家のインタビューでもコンドームという言葉を口にすることを禁じられ,「セックスの回数を減らすように」と述べるに留まりました。どうすればエイズ伝播をブロックできるかがわかっていたにもかかわらず,専門家の意見を無視してこのような説明をしてしまったのです。
 よってエイズが広がってから,実際に友人をエイズで亡くしたり,報道などで大きな衝撃を受けたことなどにより,人々は初めて行動パターンを変えたのです。もしもエイズが蔓延する前に政府がエビデンスを十分に説明し,コンドーム使用などの具体的対策を呼びかけていれば,今とは随分様相が異なっていたことでしょう。

クリニカル・エビデンスに基づいた政治判断

 狂牛病およびエイズのエピソードではなぜ政治判断が遅れたのでしょう? 要は「疑わしきは無視せよ」式判断からきたものではないでしょうか? 確かに情報は多かれ少なかれ不確実性を伴います。特にイギリス農水省は家畜業界の圧力を相当感じていたことでしょう。日本もイギリス議会制に学んだせいか体質が似ています。日本政府も個々の人々の幸せよりは企業寄りの政策を好んで行なっているようにみえます。「経済主導型の国の危うさ」はここにあるのではないでしょうか? 市場経済を重んじることによって人々の安全性がないがしろにされてしまうのです。
 市場原理に従えば,企業はぎりぎりまでコスト・ダウンを図ります。コスト・ダウンの対象は,消費者に見えない部分であり,リスク・マネジメントなどは,当然のように,いち早く予算を削られる対象となることでしょう。そして,そのしわ寄せは,人々の健康を脅かす結果となるのです。雪印の一件,東海村放射能漏れ事故,耐震設計の問題,数え出したら限りがありません。最近みられる企業倫理の劣化は,効率重視の企業体質から生まれます。国境なき市場拡大がその背後にあるとすれば,企業倫理劣化による健康被害は日増しに増えることでしょう。
 日本の規制は企業を守るものであって必ずしも国民を守るものではありません。今後規制緩和が進む中,むしろそういう状況だからこそ逆に国民を守るための規制や法律の整備が望まれます。自由化を進める前に,人や環境に悪影響を及ぼさないようなルールづくりが必要です。そして,科学的根拠に基づいた意思決定は医師にだけ求められるのではなく,企業や政府にも求められるのではないでしょうか?
(この項おわり。次回からは,「クラスターする子供の白血病」に話題を移します)