医学界新聞

 

〔連載〕How to make <看護版>

クリニカル・エビデンス

浦島充佳(東京慈恵会医科大学 臨床研究開発室)


(前回,2471号よりつづく

〔第10回〕NBCテロリズム(2)-炭疽菌のアウトブレイク

スベルドロフスクでの炭疽菌アウトブレイク

 旧ソビエト連邦スベルドロフスク州は,モスクワの東1400kmに位置する人口120万人の町です。1979年春,この町で炭疽菌のアウトブレイクがありました。
 過去の歴史を振り返った時,炭疽菌のアウトブレイクはしばしば世界各地で見られたのですが,この場合,スベルドロフスクにソビエト軍兵器工場があった点と,死亡者のほとんどが吸入炭疽であった点(今までのアウトブレイクは皮膚か腸のケースがほとんど)で世界の注目を集めたのです。当時のソビエトは,国家そのものが謎につつまれていましたから,その原因も徐々に風化しつつありました。しかし,ソビエト崩壊後の1991年に,ハーバード大学の生物学者であるマシュー・メッセルソン博士は,スベルドロフスクで実地調査に踏み切ったのです。

スベルドロフスクの疫学調査

 ハーバード・スクール・オブ・パブリック・ヘルスのフリーマン教授は,学生を前にして尋ねました。
 「アウトブレイクの疫学調査には何を持っていくんだ?」
 「そう! 紙と鉛筆があれば十分だ!」
 いくら情報技術が進歩しても,実地調査に優るものはありません。「実際に会って話をよく聞く」,これは看護や医療だけではなく,疫学においても原点なのです。そして,コンピュータを使わなくたって,真実が見えてくるものです。
 メッセルソン博士が各家庭をインタビューして回った結果,77人が吸入炭疽に罹患し,11人が生存,66人が死亡していました。4月2日が問題の発生日だとすると,平均潜伏期間は9-10日と考えられますが,43日経って発症した例もあります。この日数が,抗生剤の予防投与期間を60日とする,おおまかな根拠になっています。
 また,平均年齢は46歳で,男性が7割を占め,23歳未満の若年層には見られませんでした。しかも,何らかの持病を有している人に多いというわけではありません。主な症状は発熱,呼吸困難,咳,頭痛,嘔吐,悪寒,倦怠,腹痛,胸痛などで,入院した人たちは諸々の治療を受けていますが,死亡した人の多くは,発症2日以内に亡くなっています。
 地図に患者発生をプロットすることによって,興味深い現実が浮かび上がってきました。患者発生場所は,兵器工場を中心として南南東の方向に扇状に分布しており,4月2日午前10時の風向きと一致します。つまり,「午前10時,生物兵器工場の誤操作により炭疽菌が漏れ,風に乗って市街地へ漂った」と考えると,患者の地理的分布の説明となります。さらに,この扇型を延長すると,家畜の炭疽発生があった地域も含まれるという状況が判明しました。つまり,炭疽菌が少なくとも数km,場合によると数10kmという遠くまで,風に乗って漂う可能性があるということです。逆に言えば,この炭疽菌の性質を利用して,生物兵器として開発されたのです。
 かつて,ジョン・スノウは,コレラ菌が発見される25年も前に,コレラ菌患者発生を地図にプロットし,コレラが水を介して伝播することを発見しこれを予防した,と記されています。紙と鉛筆だけでも,これだけ多くの知見が得られることを知っておいていただきたいと思います。

得体の知れないものに対するパニック

 アウトブレイク当時,スベルドロフスクの住民は,政府が公表した家畜由来の炭疽菌流行を信じて疑わなかったものですから,街の木々やビルは市民によって洗浄され,未舗装の道はアスファルトに変わり,野良犬は皆撃ち殺されました。
 1999年,マレーシアで豚を介した致死性脳炎が流行した時に,人々は89万頭の豚を焼き払いました。「加熱した豚肉から感染することはない」という政府の発表があった後での出来事です。
 狂牛病問題でも,わからないことが多すぎるがゆえに,人々の反応は過敏となっています。
 同じく1999年のこと。ニューヨークでウエストナイルウイルスによる脳炎が見られた際にもパニックがありました。また,昨年起きたアメリカ炭疽菌事件の際に有効とされた抗生剤シプロキサンが,飛ぶように売れたと言います。
 このように,得体の知れないもの,伝染経路のわからないものに対する恐怖は,人々を容易にパニックに陥れてしまうのです。

リコール・バイアス

 不思議なのは,アメリカ炭疽菌事件の際に,多くの住人が炭疽菌に暴露されたにもかかわらず,一部の人しか発症しなかった点です。同じアパートに住んでいれば,ほとんどの人が吸入炭疽になってもおかしくないような気がします。
 それでは,炭疽菌感染症を発生する患者側の特別なリスクがあるのでしょうか? それは,今のところわかっていません。また,子どもや青少年など,若い世代もかかっていません。そしてどちらかというと男性の方が多く発症している。
 これは,今回起きたアメリカの手紙による炭疽菌事件の場合と同じです。問題となった手紙に関しても,接触した人はもっと多くいたはずです。
 つまり,従来炭疽菌を少しでも吸い込めば命はないと考えられていたわけですが,実は発症する人は一部であり,さらに抗生剤が早期に投与されていさえすれば,死亡率は従来言われていたほど高くないのかもしれません。あるいは,昔の出来事の聞き取り調査ですから,重症例だけが炭疽菌を疑われ,生存した中軽症例は炭疽菌感染症と気もつかれず忘れ去られてしまっていたのかもしれません。その結果,「吸入炭疽では死亡率がきわめて高い」と判断されたとも考えられます。
 「ケースは過去のことをよく覚えており,コントロールは忘れてしまう」,このようなねじれを「リコール・バイアス」と言います。